「みんなはできているよ?」が子供にどんな影響を与えるのか?
先生がよく言う「みんなはできているよ?」
「みんなやっているよ?」というセリフを学校の先生から良く耳にしていました。そう言われるとなかなか言い返す言葉がなく、先生の言っていることが正しいのだと思ってしまいます。
しかし、みんなができているからといって、できない人がいないとも限りません。本来、人それぞれ個性や能力があるので、できる人とできない人がいて当然です。期日通りに宿題をこなせる子がいれば、それが苦手な子もいます。私はその方がよっぽど自然だと感じます。
なぜ?「みんなはできているよ?」と言うのか?
先生としては、言うことを聞いてくれない子を何とかしようとして、掛ける言葉なのだと思います。
大前提として、学校には規則やルールがあり、宿題も毎日こなさなければなりません。
当然、それにも得意、不得意があるはずです。しかし、得意、不得意という理由を通してくれません。できていて当然だと強制されます。
なぜでしょうか?それはきっと「労働」が関係しているのだと私は思います。
「働くこと」と「教育」
ルールを守る。時間を守る。といったことは、当たり前すぎて、それを自分の能力だと思わないかもしれません。
しかし、それは社会人となり、職に就いたときに必要となる特殊な能力です。
働き手が、ルールを守るのが苦手だからとか、時間を守れない性格です、とか言っても自由奔放に行動されると、会社は困るのです。時間通りに、ルールを守れる人がいないと何もやっても効率が上がらないですし、利益もでません。
また会社というのは、国の豊かさを支える根幹でもあるため、国はより優秀な働き手を育成したい訳です。
故に学校では、ルールや期限を守ることを強制され、「みんなやっているよね?」という言葉も定着しやすいのだと思います。
NHKで放送されている「100分de名著」という番組で、「大衆の反逆」という本が紹介されたことがありました。近代教育の起源について触れられる場面がありましたが、近代教育が始まったのは産業革命と同時期だそうです。
ある意味、「みんなはできているよ?」という言葉はとても合理的かもしれません。
しかし、前ならえ右へならえの教育を真っ向から批判しようとは思いません。それによって生活は確実豊かになっているからです。またルールを守ることも生きていく上では必要です。
ルールを守れないことも、周りの子供と同じように行動できないことも、不得意こととして認め、理解してあげる。その上で、対話や観察をすることが必要なのではないでしょうか?