泣き言、からの
なんのために書く?
「エッセイって、書く、その人に興味があるから読むんでしょう。」
その言葉を聞いた時、何故か身体に重くのしかかった。このnoteは誰かに読まれることを目的としていなかったが、今わたしは、人から読まれるための文章を書いていくことを決めた。
なんとなく。
孤独な表現
他人軸での創作、表現活動(自分が表現したものの評価を他者に委ねることの是非)について考えた結果、流行を追いすぎたり、他人任せな表現はしたくないなぁ。とりあえず基礎的な文章力をつけようと、誰からも読まれないを前提にとりあえず1年ほど前から記事を書き続けてきたが、やはり、なんの反応も無しに書き続けるのはなんだか少し寂しかった。
無名でなんの力もないわたしの文章に意味なんてないのかもしれない。でも、いつか誰かの心に刺さったら。いつか誰かの心をきつく縛る縄が緩んだら。いつかー、いつか。「届けたい」そう思い表現することに意義があるのではないだろうか。
芸術と、表現。どう違う。
言葉や音楽で自分を表現することに楽しさを見出して今まで過ごしてきた。表現することは、自分1人で成立すると思っていたが、思いを言葉にする力も、対話する相手がいなければ伸びないし、絵画や音楽だって、いくら自分が満足したところで誰にも届かなければ、それは果たして芸術と呼べるのだろうか。と思いながら「芸術」と「表現」は似ているようで違うのかな。と、振り出しに戻る。
表現した先に芸術があって、芸術は表現する者1人だけでは成り立たない。1人では成り立たないが、1人の時間のほうが圧倒的に長く、孤独だ。
最後に
人は生きている限り孤独だし、完全に分かりあうことも難しい。でも、少しでも孤独な心と心が近づくために、人は絵を描き、歌を歌い、楽器を演奏し、文章を書き、踊る。そういうことなんじゃないかなぁと感じている。どうしようもない、ほんっとうにどうしようもない私という人間にも、表現の自由がある。噛み締めて生きよう。