見出し画像

「親子断絶」の報い

リターンなき子育て


数日前、Xに、以下のような考えさせられるポストがあった。


老後は子育ての通信簿です。 通信簿届いてから、もう一回子育てやり直すなんてできません。 たとえ反省しても謝っても、子供の愛情は返ってきません。 子供から無償で愛されてたあの頃、それに胡座をかいて傍若無人に振る舞った自分をせいぜい責めて、孤独な老後を送ってください。


子供が老親を愛さない、面倒をみない、というのは、昔は単なる「親不孝」だったけど、今は、親に責任があるとされる。

昔は、子育てに手間がかかっても、「親孝行」というリターンが期待できたけど、今は子育てが子供によって採点され、その点数によってはリターンがない(憎まれるというマイナスすらある)。

コストばかりかかって、リターンが不確かであれば、そんな「投資」はしない、ということになって当然だ。少子化の理由の一つである。


でも、当然ながら、親子断絶を、親の責任とばかり見るのは一面的だ。

以下のフォーブスの記事では、米国での親子断絶の研究が紹介されている。


米国人の1割が親子断絶 なぜ疎遠な家族は増えているのか(フォーブス 2024/9/22)


それによれば、親子断絶の理由は、

1 親が毒親で子供を虐待
2 未解決の対立と裏切り
3 価値観の相違

の三つだという。

親の責任だとはっきり言えるのは「1」だけで、他の二つでは、親はなぜ子供から愛されないか、わからないかもしれない。

そういえば、最近「親子断絶防止法」というのが話題になったが、これは離婚後の共同親権に関するものだった。離婚が「2」の「対立と裏切り」の原因になることはあるだろう。


親子断絶の思想


「毒親」に関していえば、この言葉は1999年にスーザン・フォワードの『毒になる親』が訳出されて日本で広まった。

親による「虐待」の話が一般に広まったのは、1970年代から80年代にかけてで、いずれにせよそんなに古い話ではない。

戦後すぐから、「若者が理解できない」「不気味な若者」という主題はあったが、どちらかというと子供の側の問題と思われていた(「理由なき反抗」)。

でも、アダルトチルドレンなどの概念とともに、親の側の問題、子育ての加害性が言われるようになる。

一つの転換点として、私が覚えているのが、1987年の映画「ナッツ Nuts」だ。

バーブラ・ストライサンド演じるコールガールが、殺人罪で裁かれるのだが、その裁判の過程で、親の虐待が暴かれる。

虐待した親を演じたのが、それまでいかにも温厚な好人物を演じてきたカール・マルデンだったのがショッキングだった。

日本では、心理学者の岸田秀が、「血縁は幻想にすぎない」と説き、母親への憎しみを吐露したりした。

いわゆる少子化の兆候は、1980年代から現れるが、こういう思潮と無関係ではないと私は思っている。

子供を作らないとは、親になることを拒否する、究極の「親子断絶」である。

「親ガチャ」という言葉の流行に見られるとおり、今や出生そのものが忌避される。

少子高齢化という問題の底流で進行しているのは、「反出生」「親子断絶」「社会の非血縁化」といった事態である。


扶養義務の行方


だが、日本では、親不孝は「法律違反」である。

民法877条1項によって、直系血族は互いに扶養する義務がある。

つまり、親が子供を扶養する義務があるように、子供は親を扶養する義務がある。


「親を扶養する義務」を正しく知ってますか 「毒親」だからと放棄することはできない
(東洋経済オンライン 2019/1/1)


日本のこの法律自体が、先進国では少数派ではある。


「親が子供に対して扶養義務を負うのは各国に共通していますが、子供が親に対して扶養義務を負う国は少数派だといえます。とくに日本のように、家族に扶養照会がいくというのは、先進国ではかなり珍しいケースです」
 例えばアメリカやイギリスでは、扶養義務は夫婦間(事実婚含む)と子供に対してのみ発生する。ドイツでは親と子供には互いに扶養義務があるとしているが、きょうだいは扶養の対象外だ。

生活保護受給問題 米英では子が親に対して扶養義務負わない(NEWSポストセブン 2012/6/10)

米国人驚愕「子が親の介護する日本」深刻な盲点(東洋経済オンライン 2021/3/24)


だがーーここからが本稿でいちばん言いたいことだがーーこの民法の子の親に対する扶養義務は、今はそれほど問題になっていないと思う。

すでに「親不孝」はたくさんいるにもかかわらず。

それは、現在の高齢者への社会保障が厚いからではなかろうか。

私もすでに年金生活者だが、私の親は、私よりはるかに多くの年金をもらい、かつ医療負担は少なかった(タダだったことさえある)。

私がいかに親不孝であっても、親が社会保険料を払い続けていた場合、少なくとも経済的には、困ることはあまりなかったのである。


報いを受ける世代


しかし、これからは違う。

今、あなたが40歳で、仮に子供がいなければ、子供からの扶養は受けられず、親への扶養義務だけが残る。

その親は、かつての高齢者ほどの年金をもらっておらず、医療負担は増えるので、あなたに金銭的な援助を要求するかもしれない。法律的には、あなたはそれを拒むことはできない。

そしてあなた自身は、低成長で手取りは少なく、将来の年金も頼りない。

というか、今40歳の人は、70歳までは働かされるだろうから、年金をもらえる期間は少ないだろう。

その70歳の時点でも、親は100歳近くでまだ生きているかもしれず、あなたの人生は、扶養義務を果たすだけで終わる可能性がある。


今ですら、社会保障制度という高齢者への「仕送り」で、現役世代が苦しんでいる、と言われる。

今度の選挙でも、この世代間格差が争点となり、社会保障制度の見直しなどが問題になるだろう。(老人の味方の共産党だけは「年金値上げ」を言っている)

だが、家族倫理を無邪気に信じている保守政党の自民党をはじめとして、親子断絶に見られる「家」の崩壊という現実を、政治はまだ直視していない。


短期的には、現役世代への分配を増やすことに、私も賛成だ。

だが、社会保障や高齢者への支給をいったん減らしてしまうと、今の現役世代が高齢者となった時、さらに苦しむ可能性がある。

特に非婚で子供を作らなかった単身者は、子供にも、家族にも、社会にも面倒をみてもらえない、絶対的に孤独な境遇になるかもしれない。


それが結局、巡り巡った、「親不孝」の報い、ということになるのだろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?