見出し画像

【追悼デニー・レイン】P・マッカートニーとP・サイモンをつないだ人

ポール・マッカートニー&ウィングスが、サイモン&ガーファンクルの曲を歌っている珍しい場面。

1975年から76年にかけておこなわれたウィングス・ワールドツアーの1コマだ。


「リチャード・コーリー」(ウィングス・ライブ 1975)


リード・ボーカルは、先日亡くなったデニー・レイン。ポール・マッカートニーはバックコーラスに回っている。


サイモン&ガーファンクル(S&G)の曲を、ビートルズ・メンバーがカバーした例を、この「リチャード・コーリー」以外に知らない。デニー・レインだからこそ2人の「ポール」を結びつけられたと思う。

著作権を許諾したポール・サイモンも、ちょっとびっくりしたのではなかろうか。

(ちなみに、この1975年のツアー先に日本も入っていたが、ポールの麻薬所持の前科によりキャンセルされた。次の1980年の日本ツアーで、ポールが麻薬所持で捕まって10日間拘置されたのはご承知のとおり)

ビートルズとS&Gとデニー・レイン


ビートルズとS&Gを、私の世代(現在60代)はリアルタイムに体験した。

もっとも、私が物心ついた1970年には、ビートルズもS&Gも、実質解散していた。

1970年1月にS&Gの「明日に架ける橋」が出て、3月にビートルズの「レット・イット・ビー」が出た。

どちらも「解散ソング(スワンソング)」というべき曲で、ゴスペル調の雰囲気も似ていた。1970年は、この2曲が世界の音楽チャートを席巻したのだった。


ビートルズのメンバーと、S&Gは、お互い意識していたと思うが、表立った交流はなかったと思う。

詳しく調べれば、それぞれお互いに言及しているだろうが、私は知らない。


ポール・サイモンは1972年に、「自分たちはローリング・ストーンズよりも大きな現象になったと思う」と発言した。


だが、ビートルズとくらべて、「自分たちのほうが大きい」とは、さすがにポール・サイモンも言えなかっただろう。


ビートルズとS&Gが1970年に解散したのにたいし、ローリング・ストーンズは、その53年後のいまも現役だ(!)。

1941年生まれのポール・サイモン(82歳)も、1942年生まれのポール・マッカートニー(81歳)も、1943年生まれのミック・ジャガー(80歳)も健在だ。

だが、1944年生まれのデニー・レインは12月5日、79歳で亡くなってしまった。コロナウィルス後遺症の肺疾患によるものと言われる。


デニー・レインはムーディ・ブルースの創立メンバーで、プロコル・ハレムやジンジャー・ベイカーズ・エアフォースを渡り歩いた華やかなキャリアの持ち主だが、正直、ウィングスに入るまで私は知らなかった。

今年はデニー・レインが参加したウィングスの代表作「バンド・オン・ザ・ラン」の50周年でもあったが、デニー・レインで私が思い出すのは、最初に触れた「リチャード・コーリー」である。


「リチャード・コーリー」という曲


「リチャード・コーリー」は、1965年に作曲されたポール・サイモンの初期曲で、2枚目のアルバム「サウンド・オブ・サイレンス」に収録された。

以下の動画でオリジナルを聴くことができる。

S&G「リチャード・コーリー」(1966)


このころのS&Gのパフォーマンスには、本当に心をうたれる。

この曲は、多くのアーティストにカバーされた。有名なところでは、ヴァン・モリソンが歌っている。


ゼム(フューチャリング:ヴァン・モリソン)「リチャード・コーリー」


ジャマイカのケン・ブースが歌ったレゲエ版も味わい深い。


ケン・ブース「リチャード・コーリー」


だが、カバーのなかでは、ウィングスでデニー・レインが歌った「リチャード・コーリー」がいちばん有名だと思う。


以前、ポール・サイモンについて書いたときに調べたが、「リチャード・コーリー」は、複雑な背景をもつ曲だ。

もともとは、ノーベル賞候補といわれたアメリカの詩人、エドウィン・アーリントン・ロビンソンが1897年に発表した有名な詩。リチャード・コーリーという架空の人物を素描している。ポール・サイモンは、その詩をアレンジして使っている。

以下は、アーリントン・ロビンソンの原詩を私がラフに訳したものです。


道行くリチャード・コーリーを見かけるたび、
沿道の僕らは思った。
彼こそは本物のジェントルマン。
趣味は完璧、器量よし。

彼は上品で控えめで、
心地よい会話ができる。
でも、彼の「おはよう」という挨拶さえ、人びとを緊張させた。
ただ歩いているだけで、重要人物とわかるから。

もちろん彼は金持ちで、王様よりも裕福だ。
すべてのたしなみと教養を備え、
彼こそ人の理想像、
僕らすべての目標と思えた。

だから僕らは猛烈に働き、彼のようになれる日を待った。
日々の食い物にも事欠きながら。
そのリチャード・コーリーが、ある静かな夏の夜、
家に戻ると銃で頭を撃ち抜いた。

Whenever Richard Cory went down town,
We people on the pavement looked at him:
He was a gentleman from sole to crown,
Clean favored, and imperially slim.

And he was always quietly arrayed,
And he was always human when he talked;
But still he fluttered pulses when he said,
"Good-morning," and he glittered when he walked.

And he was rich – yes, richer than a king –
And admirably schooled in every grace:
In fine, we thought that he was everything
To make us wish that we were in his place.

So on we worked, and waited for the light,
And went without the meat, and cursed the bread;
And Richard Cory, one calm summer night,
Went home and put a bullet through his head.


簡単に言えば、自殺した上流階級の男の詩である。

詩だから、解釈は自由だが、一般には、19世紀後半に露わになった社会的格差や、富者ですら幸福ではない「現実の厳しさ」を表現していると言われる。(この詩はアメリカの大不況期に書かれた)

ポール・サイモンは、原詩の基本設定は生かしながら、「リチャード・コーリーが所有する工場の労働者」が語っているように変えている。

そして、リチャード・コーリーの自殺を知ったあとも、「ああ、リチャード・コーリーになりたい I wish that I could be Richard Cory」と繰り返す。

ポール・サイモンによる詩は、以下のサイトで見ることができる。


ちょうど「ポール・サイモン全詞集」が国書刊行会から出たところで、訳詞はそれにも収録されている。

https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336074799/

(著作権がうるさそうだから、私は訳さないでおこう)


原詩の「リチャード・コーリー」は、いわば「まやかしの幸福」の象徴だ。リチャード・コーリーは、すべてを持っているように見えたが、「幸福」だけは持っていなかった。

だが、ポール・サイモンの詩の貧乏な労働者は、そのまやかしの幸福にすらあこがれる。

ポール・サイモンの詩は、つねに「人生とは何か」を問いかけるが、この詩はとくに、初期に特徴的な、社会の底辺から叫ぶプロテストソングになっている。

社会の偽善の告発、幸福とは何かの根本的問いかけ、そして「当たり前の人生」への激しい拒絶がある。

この曲には、1960年代世代の初心、「初期衝動」のようなものを感じるのだが、どうだろうか。

ビートルズもS&Gも、売れてからはこういう曲を歌わなくなった。


デニー・レインが「リチャード・コーリー」に込めたもの


デニー・レインが、決してポップとは言えないこの曲を、なぜツアーで持ち歌のように歌ったのか、よく知らない。

だけど、デニー・レインと一緒に歌うポール・マッカートニーにも、心からの曲への共感を感じる。

なお、1975年のツアーで、デニーは「リチャード・コーリーになりたい」を一カ所だけ「ジョン・デンバーになりたい」と変えて歌った。

これはいろいろ取り沙汰されたが、当時、ジョン・デンバーはアメリカで最も売れている歌手だったので、軽いジョークだったのだろう。ジョン・デンバーが飛行機事故で亡くなるのは1997年である。


デニー・レインは晩年まで、この曲を好んで歌っていた。

2016年


2017年(この動画でも、観客にうながされるようにして、一カ所「ジョン・デンバー」に変えている)


彼にとっての「リチャード・コーリー」とは何だったのか、あらためて考えさせられる。


デニー・レインの個性は、ポールの後ろに隠れて分かりにくかったけれど、「ロックの魂」のようなものをポールに思い出させてくれる人だったのではないか、と想像したりする。

ご冥福をお祈りします。



<参考>


いいなと思ったら応援しよう!