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バレンボイムはなぜ「リスト:ロ短調ソナタ」の録音を「抹消」したのか
ダニエル・バレンボイムは、ピアニストとしてドイツ・グラムフォンに録音した音盤を集大成して、CD39枚組の「The Solo Recordings on Deutsche Grammophon」を出した。
私が愛聴してやまないボックスセットである。
しかし、1つ、気になる点がある。
1979年録音のリスト「ロ短調ソナタ」だけが外されているのである。
添付の解説に、以下の断り書きがある。
「アーティストの要望により、『ロ短調ソナタ』はこの再発盤から省きました。バレンボイムは、彼の曲の解釈が、1979年の録音時から大きく変わっていると感じているからです。」
At the artist's request, the B minor Sonata has been omitted from this reissue, because Daniel Barenboim feels that his understanding of the work has changed significantly since he recorded it in 1979.
ピアニストとしてのバレンボイムは、モーツアルト、ベートーヴェンの現代最高の名手だが、リストでも権威だと思う。主要レパートリーは録音している(どれも見事な演奏だ)し、コンサートでも好んで弾いている。自信があるはずなのだ。
なぜバレンボイムはこの録音の再発を嫌ったのか。79年録音のロ短調ソナタの初出盤を、私は持っているので、改めて聴いてみた。
聴いた感想は・・・見事な演奏だと言うしかない。バレンボイムだから、大変にロマンチックな演奏だが、リストなんだからそれがふさわしい。速いところは速く、歌うところは歌って、メリハリを効かせながらも、次第に演者の気分が高まってくる「勢い」を感じ、興奮させられる。それでいて、全体の構成はしっかりしていて、欠点はないように思えるのだ。
バレンボイムは、この演奏の何が気に入らなかったのか。
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他の人はどう聴いたのか。ネットで探すと、sawadoさんという人が、ロ短調ソナタの聴き比べをやっており、バレンボイム盤についてはこう書いている。
<引用始め>
「Daniel Barenboim (1979, DG):ダニエル・バレンボイム
ピアノの技術は洗練されているとは言いがた く、場所によってはかなり無理をして弾いている感がある。ただ、リズムの骨格はしっかりとしており、表現に筋は通ってはいる。全体的にストレートな奏法 で、フレーズ処理が適切。良いのは125小節dolce Con graziaからで、ここは美しい音色でしっとりと歌っている。フレージングも柔らかく、タッチの種類も多彩。331小節からのアンダンテ・ソステヌート も美しい音色で弾 かれている。フレームをがっちりと決め、ダイナミックレンジをあまり大きく取らず、ペダルを少なめにしたクリアなタッチはベートーヴェンに相応 しい。ただ、技術的な限界のせいか、全体的にこじんまりとした出来になってしまっている。」http://www.fugue.us/Lisztbminorsonata.html
<引用終わり>
バレンボイムはテクニックについて色々言われる(私にはよくわからない)。どちらかというと、曲を大きく掴み、勢いに任せるタイプだから、技巧派とはいえない。技巧派が競って挑むリストの演奏について、こういう評価になるのは納得できる。
しかし、バレンボイムの良さは、作曲者の意図、曲の魅力を正確に伝えることだと思う。それはテクニックより重要だ。そのバレンボイムの美点については、このsawado氏も、私の感想と似た評価になっていると思う。
sawado氏の最終評価はC「積極的な高評価を与えるべき優れた演奏」だ。
sawado氏はこの曲に関して、デ・ラローチャ、アラウ、野島稔の録音を最上位「A」に置いている。どれも私は聴いていないが、もちろん、デ・ラローチャとアラウは私の大好きなピアニストだ。
それはともかく、なぜバレンボイムはこの録音の再発を嫌ったのか、わからないままだ。
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実はバレンボイムは、79年録音の後にも、「ロ短調ソナタ」の録音を残している。
DVD「Barenboim Plays Liszt」に入っている演奏で、6年後、1985年の録音だ。
私はこのDVDを持っていることを忘れていた。音盤を整理している時に気づいて、さっそく聴いてみた。
視聴した感想は・・・いや、素晴らしい。
解釈に決定的な違いがあるとは思わない。しかし、右手の速いパッセージなどをより丁寧に弾いている(これは、録画されていることも関係するだろうが)。
sawado氏が褒めている「歌う」部分では、さらに念を入れて歌っている。
その結果、演奏時間に大きな違いが出ている。
1979年録音 30:14
1985年録音 33:13
3分も違うとは感じなかった。安全運転という印象ではなく、後半にかけては、難所でテクニック的に危ないところがありながらも、勢いよく弾いている。(決して格別に手が大きいわけではないバレンボイムに、オクターブ連打がつづくこの曲は大変そうだ)
とはいえ、79年録音で、「勢いで弾き飛ばした」ところを、意識して是正した感じはある。
その結果、79年録音の爽快感はやや減っているが、よりバレンボイムらしいロマンチックな個性が出ている。33分超は、平均より長いだろう。
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85年の演奏が、この曲に関するバレンボイムの最終結論かどうかはわからない(解釈がいつ変わったかわからないから)。
いずれにせよ、79年録音のような十分に高水準な演奏を反省して、あえて再発しないところに、彼のアーティストとしての良心と向上心を感じるのは確かだ。
この曲について、バレンボイム自身がコメントしている記事はあるのだろうか。
まだ元気なバレンボイムだが、現役引退のタイミングは着実に近づいている。
前にも書いたが、バレンボイムとポール・マッカートニーはほぼ同年だ。どちらも永遠に活動してほしいが、それは叶わぬ夢だろう。
引退前に、この曲をもう一度弾いてほしいというのは贅沢だろうか。