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追悼・週刊朝日と穴吹史士
週刊朝日が本日発売号で休刊したが、私としては、かつて編集長だった穴吹史士(ふみお)さんを追悼したい。
穴吹さんは、1990年前後、週刊朝日編集長を務めた。
ちょうど、松本人志の「遺書」や、神足裕司・西原理恵子「恨ミシュラン」が連載されていた頃、週刊朝日の絶頂期だった。
一方、週刊文春は花田紀凱編集長時代で、文春史上最高部数に達しようとしていたが、週朝も、それに対抗できる魅力ある誌面を作っていた。
1989年には「サンデー毎日」の鳥越俊太郎編集長の「宇野宗佑スキャンダル」報道などもあった。
バブルで広告収入も絶好調、週刊誌の1つの黄金時代だった。
だが、冷戦の終了とともに、マスコミ界は1つの転機を迎えていた。
1991年の「朝日ジャーナル」休刊は、その象徴だ。
穴吹さんは、時代の変化に、新聞社の出版事業を対応させるべく、週朝編集長、その後は出版局次長として、中心的な働きをした。
しかし、その後は不運続きだった。
1993年、週刊朝日の記事をめぐり、右翼の野村秋介が朝日社長室で自殺する事件が起こった。穴吹さんもその場にいたと思われる。
1996年、「マルコポーロ」事件で冷や飯を食っていた花田紀凱を朝日に引き抜き、「UNO」を創刊したが、部数が伸びず2年後に休刊となった。
おそらく社内左翼にそうとうイジメられたと思う。
1997年、もろもろの責任をとり、デジタル部局に左遷された。
朝日記者が書いた追悼記事に、以下のように書かれている。
そんな穴吹さんが週刊朝日の編集長を退き、いろいろあって流れ着いたのがAICでした。1997年のことです。
「いろいろあって」というのが、以上記したような事情だ。
ちなみに、AICとは「アサヒ・インターネット・キャスター」のことで、穴吹さんはその編集長を務めたが、当時の新聞社のデジタルはもちろん日陰の部局だ。
元「週朝」名編集長のポストとして役不足だったが、すでに社内的な出世は望めない立場だった。それでも腐らずに意欲的に働いている姿を見た。
しかし、2006年、肝臓がんが見つかり、2010年、63歳で亡くなった。
その間のことは、上掲記事に詳しい。
新聞社はインターネットの登場でダメになったと言う人が多いが、私はそうは思わない。
冷戦とバブルが終わった1990年前後に転機があった。
とくに朝日や毎日は、その時に、左翼イデオロギーを捨てて読者と向き合い、読者が何を求めているかを真摯に探って、変わらなければならなかった。
そこで変われていたら、1990年代後半のネットの波にもうまく乗れたかもしれない。
しかし、その転機に気づく者があまりに少なく、その後も旧態依然の意識で放漫経営を続けた。その結果が現在だ。
穴吹さんは、あの時代に、転機を自覚していた稀な人だった。
しかし結果は、ボロボロになって亡くなってしまった。
週刊朝日は別に追悼しないが、穴吹さんのことは改めて追悼し、ご冥福を祈りたいと思う。
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<参考>