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「象徴界」が嫌われ、「小泉進次郎」が選ばれる時代

最近、人の気持ちに寄り添えという人がよくいるけど、あれはなんなんだろうね。

「ケア」なんつーてね。左翼どもはカタカナ語で商売する。

お気持ちに寄り添わなければならない相手は、天皇陛下だけだ。俺が右翼ならば。宸襟を安んじる、というね。


その辺の平民のお気持ちに、なぜ俺が寄り添わなければならないのか。

お前のお気持ちなんか知らん。忖度しておらん。

なんか言いたいことあるなら、その都度言えばよい。


人間には生まれつき、同情心や共感作用があるから、目の前に不幸な人や困っている人がいれば、自然に哀れみが湧く。

でも、「それ以上」を望まれては困る。

人のお気持ちに寄り添えと、自然の性情以上のものを要求するとは、いかなる権限によってか。自然性を改造しようという左翼の発想だ。


兵庫県の斉藤知事は(よく知らない人だが)パワハラだおねだりだという声に負けず、辞めないでほしい。

キャンセルカルチャーをキャンセルしてほしい。

知事を辞めさせたいなら、リコールその他の法的手段がある。それ以外の非公式な言いがかりで辞めるなら、選挙で選ばれた重大な意味と責任をないがしろにする行為である。

パワハラなんて和製カタカナ語で、これ以上民主主義や世の中の仕組みを壊さないでほしい。

辞めません、選挙で選ばれたんで、というサンドウィッチマンのコント「矢目内知事」みたいに頑張ってほしい。


人間は「現実界」と「想像界」と「象徴界」の3つの世界に渉って生きている。

「現実界」は「もの自体」みたいなもんで、一般人は気にしないでよろしい(死ぬ時にわかる)。

想像界はおおむね「内的自己」で、象徴界は「外的自己」だ。


想像界、内的自己は、イマジナリーな慰めの世界。母親に抱かれる幼児的な満足を回復しようとする欲求に支配される自分だ。母親だけが、幼児のあなたの「お気持ち」に関心があった(はずだ)。

象徴界、外的自己は、構造化された社会秩序に適応する部分。幼児的な満足への介入であり、父親的な命令や禁止に従う自分だ。つまりは「お気持ち」が利かない世界である。

人は象徴界に入ることで、想像界の満足の多くを捨てて、社会に適応する。


でも、いまの時代、「想像界」人間が幅を利かせて、「象徴界」人間が嫌われる。

「想像界」が決定的に重要なのは、結局「自分」というものは、「現実」にもとづかない、「想像」の産物だからだ。自分をイマジナリーに愛すること(自己愛)は、人間の出発点であり、自我の存続の条件になっている。

でも、学校でも、職場でも、公共の場でも、母親的な気配り、イマジナリーな心地よさを要求する「想像界」人間は、他人にも、自分の自己愛に奉仕せよと法外な要求をしてくる。


そこで、そうした「想像界」を切断し、「象徴界」を代表しようとする人間は、パワハラだなんだと指弾され、嫌われ、排除される。

日本ラカン協会員で美術家の彦坂尚嘉が、「安倍晋三は象徴界が強すぎるから嫌われる」と、安倍が暗殺される前に言っていた。

職場でパワハラ上司を追い出した「想像界」人間は、今度はお店で怒鳴り散らしてカスハラを働くだろう。職場でもお店でも、「自己愛」が基準だからだ。

安倍晋三を殺したのも「想像界」人間たちだ。


政治家、とくに総理大臣を目指すとなれば、「象徴界」の代表となるようなものだが、今回の自民党総裁選に並ぶ顔ぶれは、「想像界」人間に嫌われないように尻尾を丸めた犬コロばかりに見える。

政治家は、人一倍元気で、たくさんの人を助けると同時に、たくさんの人を傷つけられる人間でなければならない。

首相には、最終的には他国との競争に勝ち、平和的手段で国益を最大化し、避けられず戦争になったら、それにも勝ってもらわなければならない(もちろん自国だけよければいいということにはならないが、そんなエクスキューズを言い始めると、きりがない)。

人を傷つけたくなかったら、遁世して、宗教家になればよい。


でも、今の政治家は、「想像界」人間たちの票が怖い。パワハラとか言われるとマスコミと左翼が連日騒ぐ。社会的制裁を受ける。だから、元気がない。元気のある人が政治家や組織のトップになれない。

そこで、いちばん人を傷つける能力がなさそうな「進次郎」が自民党総裁に選ばれようという情勢だ。


父権や家父長制(的なもの)を目の敵にして攻撃してきた左翼思想の成れの果てが、小泉進次郎だ。

いちばん「象徴界」から遠そうな人が、パワハラしない、いい人だから、と「象徴界」のトップに選ばれる。


象徴界を代表する意味の構造が「言語」だ。言語は、個々の「自己愛」が生まれる前から社会に厳然としてあり、個人を社会の「掟」にしばりつける。

それなのに、小泉進次郎が「言語明瞭、意味不明瞭」の進次郎構文しか話せないのは、彼が象徴界へのコミットーー禁止や命令といった機能ーーから、できるだけ逃れようとするからだ。

つまり、政治的言語から、禁止や命令といった「パワハラ」に少しでもつながりそうな要素を排除すると、あのように空虚な「言語」になる。

(パワハラと言われるのを恐れて、いまに日本のすべての政治家や組織のトップが「進次郎構文」で話し始めるだろう。それは、言語が、日本語が、個々人を社会秩序に結びつける機能を失うということだ。何度でも言うけど、英語のように偽装しているが、「パワハラ」という言葉があるのは日本だけだ)

そんな小泉進次郎で、わが日本は「戦争」に勝てるのか。


でも、残念ながら、それがご時世。「想像界」に奉仕するご時世で日本は負ける。




<参考>


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