「論理の鬼」安藤馨の名文
法哲学者の安藤馨(一橋大学教授)が、朝日新聞の「憲法季評」で3カ月に1回書いている。
毎回話題になるが、きのう載った「選挙ポスター」についての考察も、SNSで多くの人が取り上げていた。
きのうの記事は「プレゼント」されたため、無料で全文を読むことができた。ただし、今日9:13までだ。
全体が緻密に構成されているので、全文を読まないと意味がないが、著作権を配慮して、ここでは前半だけを引用しておこう。
東京都知事選挙が終わって1カ月が経った。立憲民主党と日本共産党が一丸となって支援した候補の3位での惨敗など、今後の国政への少なからぬ影響もさることながら、選挙の過程であらわになった様々な問題の余波がなお尾を引いている。今回特に注目したいのは選挙ポスターの問題である。
都知事選の候補者数は過去最多の56人に達し、ポスター掲示場の枠不足から、8人の候補者がクリアファイルと画鋲(がびょう)を支給され枠外に自身で「増設」する形での掲出を求められた(不公平性を理由とする選挙無効訴訟が検討されているという)。他方で、この掲示枠の不足には、ある特定の団体が24人もの関連候補者を擁立したことが大きく影響しており、更に、一定金額以上の寄付者には寄付者が独自作成したポスターを24枠分貼れるようにするという形で、この団体による事実上の掲示枠「販売」が行われた。
またある候補者はほぼ全裸の女性の画像を含むポスターを掲出し、警視庁は「わいせつ」なポスターとして迷惑防止条例違反の疑いで警告を行った。実に問題陸続、百花繚乱(りょうらん)の感がある。
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掲示場の設置方法などに改善の余地はあるだろうが、前半の問題の主因は人々の被選挙権の行使の結果としての候補者の過剰である。大型選挙に大量の「泡沫(ほうまつ)候補」が登場することは毎度のことだが、そのことが選挙制度にかけている大きな負担は掲示場の問題に限られない。当選を真摯(しんし)に目指しているとは思われない候補者が散見されるのも事実である。しかし、真摯さに基づいて被選挙権の行使を規制することは望ましくないし、可能でもない。
その上でなお候補者数を合理的な範囲に抑制する必要を認めるならば、実効性に乏しいことが既に判明してしまった供託金の増額ではなく、諸外国や政党の党首選挙に見られるような、立候補にあたって一定数の有権者からの推薦署名を要求する制度の導入が望まれる(マイナンバーカードを活用したオンライン署名などでもよかろう)。
これは民主的選出を前倒しして開始する制度として理解でき、資力の多寡によって被選挙権を制約してしまう供託金制度と異なり、民主的正統性に問題を生じないという点で優れた制度である。おかしな選挙活動が予想される立候補予定者についてはこの段階で民意により濾過(ろか)されることが期待され、非組織的な少数派の主張を真摯に訴えようとする「インディーズ系」立候補予定者については署名獲得のために平時からの政治活動が促される。
「わいせつ」なポスターについてはどうだろうか。わいせつ表現について表現規制が現に行われそれが合憲とされている我が国の現状では、選挙ポスターについても同様の規制が当然に適用されるべきだと考えられるかもしれない。だが、不特定多数の人々に強い不快感や衝撃をもたらす「品位に欠ける」選挙ポスターがそのことによって規制されるべきだとも思われない。
動物保護を訴えるために動物が殺されて利用されるさまを写した画像をポスターに用いる場合を考えよう。それらは多くの人にとって不快であるだろうし、それらを侮辱的であると考える人々も多くいるだろうが、そのような政治的主張を訴える選挙ポスターとしては許されなければならないだろう。それらは、そうした政治的主張が何に反対しているのかを明瞭にするものであり、有権者によりよい民主的選択を可能にするという機能を持つ。表現規制撤廃を訴えるためにわいせつな画像を用いることも、規制撤廃の結果を明示し、その政治的主張の含意を明瞭化する点において、同じ機能を持つ。
そうだとすれば、平時はいざ知らず、選挙ポスターに関する限りでは、いかに不快でも、たとえ既に条例で規制されているとしても、内容規制は民主政をかえって害しうるものだと考えるべきではないだろうか
(以下略)
あんどう・かおる 1982年生まれ。一橋大学教授。専門は法哲学。著書に「統治と功利」、共著に「法哲学と法哲学の対話」など。
◆テーマごとの「季評」を随時、掲載します。安藤さんの次回は11月の予定です。
(朝日新聞 2024/8/8)
安藤馨は、「論理の鬼」である。
たぶん、いま日本一の「鬼」だと思う。
その文章は、「明晰な論理展開」という筋肉だけで出来ていて、余計なカロリーが一切ない。
論理的な文章のお手本として、法律文というジャンルを超え、教科書に載るべきレベルにあると思う。
論理的な文章と言えば、同じ法哲学者の井上達夫(東大名誉教授)が思い浮かぶ。
大学入試の問題でよく使われる人だ。
安藤馨は東大法学部の井上達夫門下で、法哲学理論では井上の論敵として知られる。
井上の文章には、ある種の文学性があるが、安藤の文章にそうしたものはない。
たぶん、それは意識的で、師匠の文章にある「無駄」への批評がある。
その結果、「論理的文章の極北」「論理のハードコア」と言うべき、恐るべき名文が生まれていると思う。
媚びもへつらいも「文学」もない、裸の論理だけ。
でもそれは、ただの理屈ではなく、すべてはテーマの核心に向かい、そこに深く刺さっている。だから名文だ。
これは、主張への賛否とは別で、「表現」への評価である。
読むたびにため息が出る。
本当はわたしも、こんな文章が理想で、こんな文章が書きたいのだが、頭が悪いから書けないのだ。
<参考>