【追悼】高橋春男 時代のはざまの天才漫画家
今回も、虫の知らせがありました。
石川喬司さんのときと同じ。
「高橋春男さん、どうしてるかなあ」
と、一週間くらい前に思っていた。
わたしが、久しぶりに思い出した人は、だいたい死ぬね。
わたしが人の死ぬ順番を決めているのかもしれん。
高橋 春男氏(たかはし・はるお=漫画家)12日午前5時49分、相模原市の病院で死去、76歳。東京都出身。家族葬を行う。喪主は長男遥(はるか)氏。
「週刊文春」連載の「いわゆるひとつのチョーさん主義」など時事ネタを絡めたギャグ漫画で人気を博した。
Xで、いろんな人が追悼しているのを見た。わたしがいちばん高橋さんへの愛情を感じたのは、「がくぞう」さんのポスト↓
漫画家の高橋春男氏死去。「舛添要一=ネズミ男」「大川隆法=バカボン」を発見した偉人である。間違いなく自分の似顔絵人生に影響を与えてくれたひとり。取り急ぎ本棚の奥から氏の著書を引っ張り出してきたけど、探せばもっとあるはず。かつて一世を風靡した有名人の似顔絵を描く時、ちょいちょい参考にさせてもらってるのはここだけの秘密。改めて高橋春男さんのご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げます。合掌。
わたしが最近、高橋さんを思い出すきっかけみたいなのはあった。
近くの町田市に買い物に行っていたのだ。
1980年代、わたしが高橋春男さんに最初に会った場所は、町田だった。
そのとき、高橋さんは町田に住んでいた。
そのときが、わたしが町田に来た最初だった。
だから、町田で、
「そういえば、高橋春男さんは、どうしてるんだろう」
と思うのは自然だった。
高橋春男さんが(いまは亡き)文春漫画賞をとったのが1984年。
高橋さんの全盛期だった。
週刊文春の「いわゆるひとつのチョーさん主義」、サンデー毎日の「大日本中流小市民」、週刊現代の「ボクの細道」、噂の真相の「絶対安全地帯」。
雑誌を読むとき、必ず最初に目をとおすページの1つが、高橋さんのそれらの連載だった。
確実に面白かったからね。
当時、週刊朝日の最終ページが山藤章二の「ブラックアングル」で、サンデーの「大日本中流小市民」とライバル関係だった。
世評はなんとなく「ブラックアングル」のほうが高かったけど、わたしはいつもサンデーの高橋さんのほうが面白いと思っていた。
そういえば、山藤章二さんは、高橋さんより年上なのに、まだご存命かあ・・
(あ、いかん、山藤さんのことを思い出してしまった。死なないことを祈る!)
世間的に、「漫画家の代表」が、「加藤芳郎」だった時代なんて、いまの若い人は想像できないだろう。
「加藤芳郎」を、もう知らないかもしれないからね。
でも、1970年代、昭和40年代くらいまでは、そんな感じだった。
手塚治虫とかは、もちろん有名だけど、それは「子供の漫画」の世界。手塚とか、藤子不二雄とかは、「少年漫画家」ですね。
ほんとの漫画家、大人の漫画家は、「加藤芳郎」に代表される、新聞4コマを書くような漫画家だ、と、そういう価値観があった。
世相を批評する「風刺漫画家」がエラかった。
唐沢俊一は、高橋春男の漫画を「批評マンガ」としている。
一時似顔絵漫画家の代名詞だったが、要するに「批評マンガ」であり、これは他人の思想言動をつつき、皮肉り続ける行為であって、一般読者が考える以上に精神的負担がかかる。
「批評マンガ」という評は的確だけど、こなれない言葉ですね。
まあ、素直に、「風刺漫画」と言っていいと思う。
高橋春男さんは、1980年代の代表的な風刺漫画家だったと思うんですね。
われわれから見れば、1970年代までの古臭い「風刺漫画」に新風を吹き込んだ。まさに「80年代の風刺」の形を見せてくれた人だ。
皮肉なのは、それが、風刺漫画家の権威がそろそろ落ち始めた時代だったこと。
「少年漫画家」たちの作品が、アニメを通じて、世界に名をとどろかせ始めた時代の風刺漫画家だった。
高橋さんは、もともとアニメーターだった、という来歴が、訃報に接してよく語られていた。
初期にはOHプロ在籍で東映動画TVアニメ等のアニメーターだった高橋春男さん、ご冥福を…
高橋春男はもともとアニメーターで、『ルパン三世』1stで絵コンテ担当したりしてるが、1978年に漫画家デビューして売れっ子になった後も、『フリテンくん』や『ななこSOS』で作画監督やってるんだな。専業になったのは1984年に文春漫画賞を取ったあたりだろうか。
アニメーターから「風刺漫画家」へ、という経歴は、いわばトレンドの逆を行っていたわけで、いま振り返っても、皮肉な位置にいたと思う。
高橋さんは1947年生まれ、団塊まっただなかの全共闘世代だから、サヨク的価値観があった。
イデオロギー的というより、世代の共通感覚として、そういう下地があった。
「チョーさん主義」が「共産主義」のもじりであることは、念のため言っておこう。(チョーさんは長嶋茂雄ということも念のため言っておく)
権威や権力をものともせず、すべて「カワイイ」化して相対化する過激主義だった。
「権力」というものに、非常に敏感でしたよね。権力的なものを見ると牙をむく。
高橋さんがモノマネ化した当時の有名人で、いちばん心に残るのは「林真理子」だった。
林真理子もまた、80年代の新星で、高橋さんと同じ時期に週刊文春に連載を始めた。
高橋さんは、その当時から、林真理子の「権力志向」を見抜き、それをチクチクと風刺していた。
あれはけっこう、林さんはイヤだったのではないかと思う。
絵柄はカワイイから、文句は言いにくいが、本物の「毒」があった。
高橋春男先生の(漫画じゃなく)コラム、切り抜きを引っ張り出して読んだけど、今なら絶対炎上必至の、ブラックユーモアなんて言うも憚られる恐ろしい内容。当時でもよく許されてたな。「各界の著名な文化人や芸能人の、この人とこの人がケンカすると面白い」っていう道徳を踏みにじるスタンスが凄い。
その高橋さんが、2010年に、突然「引退」宣言する。まだ60ちょっとだった。
彼は14年前、いきなり現役を引退した。その現役晩年のころ、作品に異変は感じていた。なにかあったのかと担当編集者に聞いてみたが、なにもないというので、本人が発言していないものを掘り返すことはないなと追わなかったが、程なくして引退された。高橋さん、またいつか。
高橋春男さんが文春の連載を終了した後、高田文夫さんが電話をしたら、高田さんとわかった途端ガチャンと切ったそうです。それまで縁があった人全員と連絡を断たれたようです。
高橋春男の早すぎる引退は、業界に衝撃を与えた。
何があったのか、わたしは知らない。いしかわじゅんさんも知らないなら、ホントに誰も知らないかもしれない。
いしかわじゅんが指摘する「晩年の異変」について、指摘する人がいた。
高橋春男が死んだか。まだ週刊文春を読んでいた頃、『いわゆるひとつのチョーさん主義』の絵がどんどんかすれて雑になっていき、一体どうしたの?と心配になったことを思い出す。
わたしに「雑になった」のを見た記憶はないが、それがいしかわの言う「異変」なのかもしれない。
当時は、ちょうどデジタル入稿が始まったころで、それにまつわる不具合かも、とか思うが、よくわからない。
いしいひさいちや、いしかわじゅん、唐沢なをきがそうなったように、高橋春男も、いずれは当然、新聞の4コマを書く人だろうと思っていた。上述のように、かつての価値観では、新聞4コマが漫画家の出世の「上がり」のように言われていた。
もしかして、年下のいしいひさいちが朝日の4コマを始めたのに、自分になかなか新聞4コマの話が来ないから、すねて引退したのか? まさかね。
(加藤芳郎さんなんか、新聞4コマをずっと書かされすぎて、最後はうつ病になっちゃったんだから、早めに世代交代すればよかったのに)
いずれにせよ、高橋春男の「毒」を盛るのに、もう新聞4コマは器としてふさわしくなかった。
山藤章二の「ブラックアングル」が右翼と問題を起こしたりしたのを見て、「風刺漫画」の表現の限界を感じたのかもしれない。
もっと具体的な何かがあったのかもしれない。編集とのトラブルとか、健康上の理由とか・・。
よくわからないが、いまのポリコレ、コンプライアンスの時代を見越して、早めに引退したのか。「噂の真相」休刊あたりが、きっかけになったのかもしれん。
いまこそ高橋さんの毒がある漫画が見たいのに、本当に惜しい才能だった。
ご冥福を祈ります。