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ミヨーについて考えてみよー
今日は作曲家ダリウス・ミヨーの命日。49年前(1974年)の6月22日に亡くなりました。(来年は没後50年だな)
ダリウス・ミヨーは、一応、大作曲家だと思うんですよ。
学校の音楽の教科書にも、多分、載っている。
「フランス6人組」の1人としてだけど。
「フランス6人組」が活躍したのは1920年代、ほぼ100年前の話ですね。
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私は昔からミヨーをひいきにしている。
南仏の陽光を音楽で伝えるようなネアカな作曲家。梅雨の鬱陶しさを吹き飛ばすのにもよい。
今日はミヨーについて考えてみたい。
ミヨー「スカラムーシュ」(アルゲリッチ、マートン)
ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud 1892ー1974)
1892年9月4日、フランス南部のプロヴァンス地方で、裕福なユダヤ商人の家に生まれる。両親ともに音楽に造詣深かった。10歳の頃からドビュッシーを研究し、独自の和声感を身につける。1909年にパリ音楽院に入り、ラヴェルやムソルグスキーに魅せられる。ポール・デュカスやルルーに音楽を学ぶ一方、ポール・クローデルらの文学者とも交流。
1917年、外交官になったクローデルの秘書となってブラジルに暮らす。その経験から「ブラジルへの郷愁」「屋根の上の牛」(1919)などが生まれる。
1920年、エリック・サティのもとに集まっていた同時代の作曲家とともに「フランス6人組」と命名される。メンバーはデュレ、オネゲル、ミヨー、タイユフェール、プーランク、オーリック。
1923年、いち早くジャズを取り入れた「世界の創造」を作曲。1937年「スカラムーシュ」が大ヒットする。
1940年、ユダヤ人迫害を逃れてアメリカで教職につく。戦後はアメリカとフランスを往復し、パリ音楽院作曲家教授に。
80歳を超えても創作意欲が衰えなかったが、1974年6月22日、ジュネーブで81歳で没。
生まれつき小児マヒを患っていて、車椅子に乗っていることが多かった。
まあ、戦前のパリの、いちばん創造的な時期から生まれた人ですけど、戦後も長く生きたことは、あまり認知されていないかもしれない。
そして、交響曲を13曲、ピアノ協奏曲を5曲、弦楽四重奏曲を18曲、ヴァイオリン協奏曲を3曲、他、膨大な数の作品を残していることも、あまり認知されていないと思う。
クラシック・ファンでも、ミヨーといえば「屋根の上の牛」や「世界の創造」くらいしか聴いたことがない人は多いのでは。
ブーレーズが悪い
「フランス6人組」は有名だけど、私が若い頃は、あまり聴かれていなかった。
これは、ズバリ、ピエール・ブーレーズが悪いと思うんですよ。
ピエール・ブーレーズと、その周辺の「前衛」の人たちが、「6人組」のような、20世紀後半なのにまだ調性音楽やっているのは、ダサい、みたいに決めつけた。
フランスはもちろん、世界的に、インテリたちはそういう価値観に影響を受けたと思うんですね。とくに戦後、1970年代くらいまでは。
それに、「6人組」の世代は、難しい時代に生きたと思うんですね。
調性音楽でやれることは、少し前のラヴェルとかストラヴィンスキーとかがやり尽くしている。
そのうえ、ベルクらの新ウィーン学派が無調への道を開いている。
そういう環境で、どうやって新しい、個性的な調性音楽が書けるのか。
そして、意外に重要なのは、彼らは、放送や録音が一般的になった、戦後世界に生きたわけですね。
だから、他人の書いた音楽もすぐに聞くことができた。というか、耳に入ってくる。同世代の作品を意識しながら個性的でなければならなかった。
これは、けっこう大変だったのかもしれません。
「あ、プーランクみたいになった。やり直し。あ、オネゲルっぽくなった」
とか。そういう苦労があったと思う。
「6人組」の復活
しかし、1980年代以降は、まずエリック・サティが復活し、「前衛」も後退していった。
「6人組」周辺は見直されつつあると思う。
いちばん見直されてるのは、プーランクですよね。最近、よく演奏される。
これはよくわかるんですよ。プーランクは、モーツアルトみたいで、闊達だし、趣味がいいし、それでいて深みもある。
次がオネゲルかな。プーランクとオネゲルは、クラシックの主流に根ざした音楽性がありますね。
タイユフェールも、いい曲が多いし(彼女も長生きした)、女性作曲家の系譜の中で見直されつつある。オーリックは映画音楽の大家として名を残している。(デュレだけがどっか行った)
ミヨーは、プーランクやオネゲル、とくにオネゲルと生涯の親友だったけど、その音楽は、少し異質です。
ミヨーの音楽は、まだ再発見されるまでに至っていない感じですね。
「ショスタコ」を明るくしたような
私は、ミヨーの音楽は、案外、ショスタコーヴィチに似ていると思っています。
ミヨーの方が年上とはいえ、生きた時代が重なるんですよね。亡くなったのも、ミヨーが1974年(81歳没)、ショスタコが1975年(68歳没)、と1年違いでした。
基本的に音楽が明るいミヨーと、音楽が暗いショスタコでは、対照的なようですが。
でも、ショスタコが南フランスに生まれていたら、案外、ミヨーみたいな明るい曲を書いたのではないかと思う。
ミヨーも、ソ連みたいな抑圧体制の中に閉じ込められていたら、ショスタコみたいな陰鬱な曲ばかり書いていたかもしれない。
しかし、根っこにある個性ーー皮肉とか、反逆心とか、あるいは、前衛を理解しつつも調性音楽にこだわるあたりを含めて、なんか似ている気がする。
とにかく、息を吐くように作曲する、その多産性が似ている。
ミヨーの映像はたくさん残っていますが、やはり健康上の理由で座っていることが多かったから、いつも五線譜が乗った画板を抱えてるようにして、絶えず作曲している。車の中でもペンを走らせている。日記を書くように作曲している。
そして、ミヨーは、一度書いた音符を、ほとんど直すことはなかったといいます。
以下はYouTubeで見られるミヨーの記録映画ですが、彼の日常の作曲スタイルがよくわかる。
(プーランクやオーリック、ポール・クローデルやデイブ・ブルーベックも登場する。映像は良好なのに、肝心の音楽のピッチが不安定なのが惜しい)
A Visit with Darius Milhaud
ショスタコも、その意味では車椅子のミヨーと同じで、移動の自由がなく、ソ連の中でじっとしてるしかなかったから、絶えず作曲するしかなかったんだと思う。
そういう多産性からもたらされる、ある種の質の安定みたいなものが、両者とも生涯一貫していると思う。
ただミヨーの場合は、戦後は自由すぎて、逆に芸術的な厳しさが失われたかもしれない。
むしろ、ショスタコから、真面目さが足りない、と言われた、プロコフィエフに近いかな。
ミヨーを振れる指揮者とは
エラソーに言っている私も、とてもミヨーをちゃんと聴いているとは言えない。
YouTubeとかで、暇さえあればミヨーを聴いていますが。交響曲を含め、かなり珍しい曲まで聴くことができる。でも、録音されていいない作品の方が膨大でしょう。
ミヨーを比較的よく演奏したのがチェリビダッケですね。チェリビダッケの演奏するミヨーはどれも、とてもいいです。
ミヨーを好む指揮者と、好まない指揮者は、はっきり別れる気がしますね。「無調」との距離感かな。
ブーレーズは、1950年代にポール・クローデルが作詞した「コロンブス」だけは演ってるけど、その後は演ってないと思う。
カラヤンとか、小沢とか、バレンボイムとかは、プーランクやオネゲルは演っても、ミヨーは演らない感じがする(実際は知らないけど)。
チェリビダッケとか、バーンスタインとかがミヨーの名演を残している。
セレナード(チェリビダッケ)
屋根の上の牛(抜粋 バーンスタイン)
このクラスの指揮者が新たに録音して、ミヨーの再評価を促してほしい。
あと、プーランク同様、室内楽ではけっこう演奏されている。吹奏楽の「フランス組曲」も有名かな。
ルネ王の暖炉(第1曲)
クラリネットとバイオリン、ピアノのための組曲
フランス組曲
私としては、大編成の交響曲や協奏曲での名演を聴きたい。
最近、ラフマニノフが再評価され、大復活しているけど、ああいう音楽が流行るなら、バランス上、ミヨーも聴かせてくれと思う。
ミヨー再評価の機は熟していると思うんですけどね。