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ちょっと先の将来を母に投影して

人は変えられないとわかっていても、つい変えようとしちゃってるなー。
その自覚がないことも多いのだけど。
特に身内にはそういう傾向が強いのかなーという話など、もろもろ雑記。

***

久しぶりに兄弟3名(弟が2人)が母の元に集まった。
どれぐらいぶりだったろう。
これからの、残り少ない両親の人生をどうサポートするか、という話をした。

今夜は母の話。
いきなり一人暮らしをするようになった”おとぼけな”母。
ユピ坊に見守られて、なんとか頑張っている。

しかし、夫婦漫談の相手がいなくなって、刺激が足りないのかそのおとぼけ度合いは日に日に増している。
週末は実家に帰るすぐ下の弟が、ため息をつく。
弟「今、言ったことをすぐまた言うんだよ。何度教えても5分も立たないうちに聞いてくるんだよ。もう疲れるよ。」
私「だから、そういうものだって、何度も説明してるじゃない。」

さっき会話したことを覚えていられるなら、何度も聞きはしない。
当事者にとっては、いつだって、今はじめて思いつくことなのだ。
火がつかずに、何度もライターの回転式のヤスリを回すようなものだ。
ふと「あれはどうなった?」と思いつく。だから尋ねる。
これを繰り返しているにすぎない。

人は会話したことは相手も覚えている(自分と同じ程度に)と思いがち。
忘れていても2、3回も話せば、さすがに覚えるだろうと思う。
しかし、認知症はそうはいかない。
覚えられない。そして覚えられないという自覚がない。
だから会話の中の心無い一言に、プライドが傷つく。

***

足の不自由な母のもうひとつの心配事は転ぶこと。
今、大腿骨を折れば、ほぼ寝たきりコースだし、打ちどころが悪ければそのまま命も失いかねない。
そのため、手すりをつけたり、床の滑り止めをしたり、取れる対策はほとんどやっているのだが。

どうしても、急な階段の勝手口を使うという習慣が修正されない。
弟が「こっちは危ないから、玄関から出入りするように」と口酸っぱく説明し、誘導するための作戦を講じても、一向に変わらない。
気がつけば勝手口から降りようとする母を見つけては「だから、こっちは危ないって!」と口調が荒くなる。

人は変わらない。
ましてや、たった今のことを覚えていないのに。
何十年もそうしてきて、それが一番便利で安全だと身体が覚えている行動を変えるのは至難の業。

弟は母を心配して、それが母のためだと思っている。
だから自分のいう通りにしない母に腹を立てている。
わかってほしいと思っている。
わかってくれる母でいてほしいと思っている。

「だから、そうじゃないって!」
そんな弟を見て私もイライラしてくる。
「どうしてわからないのかな。」
そう、私もまったく同じことを言っている。(笑)

大切に思うがゆえ、その思いが通じないときは余計感情が動く。
でも相手には、その意見を受け入れないそれなりの理由があるはず。
うまく説明できないだけ。


弟には、母が勝手口から出入りしてもいいように対策をとろうと提案した。
周囲にものを置かないとか、万が一転んでも、怪我をしないようにとか。
母は慣れているから意外と上手なのだ。
私たちこそ、使い慣れていないから危険だと思うのであって。
足が不自由な分、腕の力は強くて、しっかり手すりを持って登っていく。
すべての力が衰えているわけではない。

母が「このままの暮らしを続けたい、大丈夫だよ。」という間は、見守っていこうと思う。
「なんとかしてくれ」と言ったら、考えよう。
おとぼけ具合との兼ね合いがあり、見極めは難しいけど。

もう少ししたら、この話は自分の話になる。
最後まで、自分の好きなように生きるのは難しいのかもしれない。
なら、今からどんな準備をしておけばいいのかな。
自分の将来を母に投影して、いろいろと考える週末だった。



タイトル画像は”最所あさみ”さんにお借りしました。
ありがとうございます。


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