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「ご飯が美味しい」はしあわせの証

noteをお休みしていた大好きなnoterさんが帰ってきました。
今ご実家に帰られていますが、そのエピソードがキラキラしています。
いつも楽しいのですが、昨夜の記事には少し考えさせられました。

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父と母は2人のルールの中で生活している。
そこに私が一人入るだけで生活のリズムが狂ってしまう。
「普段この時間にしていること」がずれてくる。
「普段この場所においているもの」が一瞬なくなる。
「普段こういうテンポの会話」が乱れる。
「普段私たちがしていること」を私がしない。
「普段」「普段」「普段」日常が日常でなく、それ(非日常)が2週間も連続して起こる。
70代の夫婦には少しきついかもしれない。

うぉんのすけさん ほのぼの生きる  011_20230111より

私が昨年の夏、初めての介護休暇をとって帰ってきたときに感じたことでした。
第2弟がこの家を出たのは42年も前のことです。
その後、42年間もここで、ふたりだけで暮らしてきたのです。
職場や地域の方々との交流があったにせよ、ふたりで暗黙のルールを決めて、ほどよいテンポで、ちょうどよい空間を作ってきたのです。

そこに、子どもとはいえ、ずかずか上がり込んで、「あーしろ、こーしろ」「あれはダメ、これもダメ」と言われてはさぞかし鬱陶しかっただろうなと思います。
できないことが増えて、助けてもらっていると思えばこそ、何も言い返さなかった(言い返せなかった)けど、寂しかったり、悔しかったり、残念だったに違いありません。

私たちも突然の状況変化に何とかしなくては!と気持ちが先走ってしまいました。
かすかに冒頭の違和感を感じつつ、背に腹は変えられぬとグイグイ推し進めてきた気がします。
それはそれで致し方なかった・・・と思いますが。

これだけガッツリ干渉しておきながら、すっかり依存させておきながら、あわよくば、またふたりで何とか生活してほしいと願っている自分もいて、勝手なもんだなと思います。

朝ドラ「舞い上がれ」の1月4日放送で、主人公の舞にお兄ちゃんの悠人が言い放ったことば
「お前がやってることはその場しのぎの親切やねん。どうせ手離すんやったら、はなから助けん方がええ。無責任やぞ」

父をショートステイから連れて帰るとき、本人が望まない限り「施設には入れたくない」と強く思いました。
しかし、介護の先はまったく分からない。
今の支援がいつまで続けられるかもわからない。
オットくんは冷静に「施設に入れるタイミングを間違わないように」と言います。
私がのめり込み過ぎるのを懸念しての助言です。

わかっている!
つもりです。が、得てして「わかっていない」のはたいてい当人です。
そうなると、これだけ干渉してしまったことが自己満足で無責任になりかねないなと、悠人のことばでハッとさせられたのです。

自分がやりたいと思うこと、父の気持ち、オットくんの気持ち、仕事上の役割のバランスをとるのは簡単じゃないんだなぁ。
重心をずらしながら、微調整するしかありませんね。


今日は3月並みの陽気。
父はもうデイサービスに行く気はないようです。
なので、朝の攻防戦はしかけないことにしました。
「ご飯が美味しい。」と出した朝食を全部食べてくれたので、それでいい、それがいい。
それが、父にとって、しあわせの証なんだと思うことにします。


タイトル画像は”ゆりがえる”さんにお借りしました。
こんなふうに生きてきてた両親に思いを馳せます。


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