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「明窓浄几」

 みなさんは「明窓浄几めいそうじょうき」という言葉を知っていますか? 読んで字の如くで、明窓というのは「明るいほこりのついていない窓」、浄几(浄机でも)というのは「ごみのたまっていない、平らできれいな机」を意味します。そんな言葉を用いて、羽仁もと子は、自ら創設した自由学園で生徒たちに、年賀の集りで話をしました。

明窓浄几
 今日きょうは同じ明窓浄几ということを人間の内部のことで考えてもらいたいと思います。まず目に見えない窓には、埃がついていないか。目に見えない机の上には、ごみがのっていないか。目に見えない私らの内部も、ごみやほこりがついていない「明窓浄几」でありたいと思います。
 私らの内部のちりほこりというのは、どういうものでしょうか。人を憎んだり、あの人はこれこれだと勝手な推量をして、とんでもないことを考えたりする。そういうことは、みんな塵芥ごみと同じことです。私らの内部、心の中もほんとうに明窓浄几にして、今日から勉強するようにしたい、私もそうしたいと思っています。
 それにはまず学校での五時間の勉強の中で、わからない所があっても、自分にはとっくりと心持に入らなくても、先生がそういったからそれでよいと思うのは、自分の机の上にごみ・・をためていることです。窓にもほこり・・・をたからせていることです。それではどうしたらよいのでしょうか。その日のうちにちりほこりを見つけなくてはなりません。二日分も三日分も四日分も五日分もためたら、ごみ・・はどうにもならなくなります。今日一日にあったごみ・・を自分で発見するにはどうしたらよいか。今日一日にあったことを、一つも疑問がのこらないように、すぐ拭きとるようにします。
 分からない所はどうしたらよいかというと、翌る日学校へ行ったら面倒でも先生に必ず聞くようにします。それは明窓浄几、あかるい窓きれいな机をつくることです。
 窓にもつくえにも頭の中にも、そのようにして毎日毎日ごみをためない努力をしなければ、私たちは皆だんだんわるい頭の人になってゆきます。毎日毎日そうすることは苦しい骨の折れることだけれど、それでもやめないで長い間努めていると、年を重ねて、非常に分かりのよい人になります。
 私は小さい時から賢いとか分かりよいとかいわれる度に不服でした。なぜなら前にいったようにおさらいをする度に、私は毎日沢山の時間が入用でした。学校から帰ると、夕方まで一生懸命ですから休む時はありません。それでこんなにわかりにくくこんなに苦しんで、骨折っても分からないことがどっさりあるのに、分かりよいといわれるのは不服なのです。しかし私はこの勉強をしている最中に、何かわかるようなことが少しずつ出て来ました。そうして私は勉強と忍耐のことを一生懸命思うようになりました。苦しんで勉強すれば、どんな人でも出来るようになります。(昭和30年2月)

羽仁もと子著作集 第20巻『自由・協力・愛』「明窓浄几」より抜粋

 家の中が片づけられない…、いつも散らかってしまう…と悩む方が多くいます。それはきっと溜まったゴミ・・が積もり積もってしまった結果かもしれません。まずは目の前の机やテーブルの上、カバンの中など身近なところから、「明窓浄几」をめざしてみましょう。
 もちろんそれは物だけではありません。家計簿をつけている中で、お金の管理がごちゃごちゃになってしまうと、つけるだけでもストレスですし、続きません。そんな状態だと、家計への不安やストレスが、心のちりほこりとなっていきます。もやもやした心の塵や埃を取り除き、お金を正直に・・・数値化(見える化)することで、解決策や未来への展望も考えられるようになる、そんな一歩になるのではないでしょうか。


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