第2の森さんは日本中にたくさんいる。なんでデリカシーのない人が生まれるのか?
こんにちは、井畑です。
いつも人間観察楽しんでますか?
JOCの森会長、炎上してますね〜日本の中のプチ炎上でなく世界的に燃えるのはあの人の器なのかもしれませんが、あの人が原因でオリンピック中止なんてのも予想できそうですね。
でも、森さんの事笑えない人って日本中にたくさんいると思うんですよね。で、そういう人に限ってSNSに可能性を感じちゃったりしている笑
なので、今回の記事では「なんでデリカシーのない人が生まれるのか?」について観察していきます。
森さんの発言の何が問題なのか?
森さんの発言の何がいけなかったのか?
小難しい事を抜きにすると、結局「人の嫌がること」を「多くの人に聞こえるように」言ってしまった事です。
女性蔑視は基本的に論外なのですが、JOC理事の立場での発言はより人に不快感を与えました。
JOCの会長という立場なので、当然多くの人に拡散していきます。今回は世界規模でしたね。
「人の嫌がること」を「多くの人に聞こえるように」言ってしまうとみんなに責められる………小学生でも分かりそうな事ですね笑
大人になると鈍る感覚
でも、この感覚って大人になると鈍るんですよね。
例えば、先輩から意味のわかんない事言われても「先輩、それ意味分かんないっす」ってなかなか言えなくないですか?
お互いの立場や関係性もあるし、言われたがわの配慮・気遣いもあるので、大人になると「自分の言ったことの意味や影響」が自分にフィードバックされる機会が少なくなります。
自分がマウントを取れる立場にいれば「何を言っても許される」空気が出来上がっちゃうんですよね。
パブリックの場ではマウントは取れない
こういう、常に「何を言っても許される空気」の中で生活している人がパブリックな場で発言するとやらかしちゃうんですよね。
パブリックな場では、基本的に聴衆は発信者に謙りません。むしろ上から話を聞いてきます。なので、より「自分の言ったことの意味や影響」をシビアに判断されてしまうんですよね。
なので、普段デリカシーのない発言をしている人は炎上の餌食になるんですね。
パブリックな感覚とは?
てか、僕がこの記事の中で使っている「パブリックな感覚」ってのは、「自分の言ったことの意味や影響を考えられる力」って意味なんですよね。
これが出来ていない人が本当に多い。
例えば、SNSで誰かの投稿に対して批判的なコメントをするとします。そのコメントは投稿者本人だけでなく、無数の人に見える形で発信されるものです。
つまり、やっていることは人前で相手の事を批判するのと同じです。それが相手に対しての心からのアドバイスであっても、他の人の前ではやってほしくない事だってたくさんあります。
その自分の発信が、発信したあとどんな意味や影響のある行動なのか。全然イメージ出来ていない人がたくさんいます。
ネット社会に感覚が追いついていない
ただ、この「パブリックな場でのデリカシーのなさ」については、デリカシーのない人を一概に責められないのも事実だと思います。
なんでかっていうと、人間って基本的に「自分の目の届く範囲の人」にしか言葉が届かなかったんですよね。
噂話だって、いつも自分が関わる範囲の人間にしか広まらなかった。
ところがネット全盛の時代になると、この情報の届く「範囲」と「期間」がものすごく伸びました。
自分の言ったことがどこまでも拡散する場合もありますし、自分が一年前に言ったことがいきなり問題になったりする。
こんな事は人類の進化の過程で初めてなので、当然適応しきれない人がいても仕方がないですよね。
パブリックな場でのデリカシーを磨くには?
結局、パブリックな場でのデリカシーを磨くために大切な事って、この新しい感覚に自分を適応させるしかないってことだと思います。
自分の情報はとてもたくさんの人に、とても長い時間みられ、しかもその人たちは忖度をしてくれない。
こういう状況に慣れるしかないんです。
そのために、やっぱり「発信の量」は非常に重要だなと思いました。感覚って「経験」によって磨かれるものなんですよね。だから、普段から「炎上の可能性」の高い場所で多くを発信する経験を重ねることで、デリカシーは徐々に磨かれてくのではないかと。
なので、今回の記事では「なんでデリカシーのない人が生まれるのか?」について観察してみました。
この記事の内容についてもっと話を深めたいと思っていただいた方、ぜひコメント欄にて教えて下さい!
それではまた次回もnoteでお会いしましょう。
Key-Performanceの井畑でした!