ワイヤレスらしさ
国立新美術館の企画展「ワニがまわる タムラサトル」
これを見てきた。
本当にワニが回ってるだけだった。
本当に。
でっかいワニの模型が電動で回転しているかと思えば、そいつの足元には、無数の、小さいワニの模型が、これ、また、電動で回っている。
当然ながら、超現実的、非日常的な光景だが、いやに居心地の良い空間だった。虚な目をして、何も食せず、只管に回っている。色とりどりのワニたち。
笑いすら起こる。
意味がわからん。
んふふっ
ふと足元に目を向けると、ワニらは土台から伸びた針金の様な構造に支えられており、当然ながら、その土台より、ワニを回転させるためのモーターの駆動を生み出している電力を、供給するための、ケーブルが伸びており、すべての回転ワニに対してそれがあるため、或いは蜘蛛の巣のように張り巡らされた、黒く、カオスなぐちゃぐちゃが、そうやって、当然のように、この視界に飛び込んでくる。
うわっ、
ってなった。
この展示を見に行こうと決めた時から、ワニが回転する理由については、考えないでおこうと決定していた。それを探すこと程野暮なことはないと思って、ただ、ワニが回るという非日常を確認するためだけに、今日は外に出よう、と。
然し、目の前に散乱する異様な曲線の集積を目の当たりにした時、いやこれが現実に戻るためのいや〜な足掛かりなのだろうと、思わざるを得なかった。
態々、ワニを回転させるために、これだけのケーブルを床にばら撒いて、はっきりと、意味の説明すらされない、「ワニの回転」を実現するために、
これだけの、
ケーブルを!?
イカれてる!!!!
そこで、ふと、時代を思った。
有線ののちに、無線が生まれた、時代の前後の関係。
今ここで、このワニを回す曲線らの存在に「イカれている」と、そんな印象を抱くこちら側の方が、変な奴らだとしたら?
ワニは回る。回るために配線が要る。
人間は人生を構築する。その為に何が必要なのかはその時その人、パラダイムやパーソナリティにより大きな差異が生じるが、必要ないものは、主に共通している。
例えば、ケーブルは要らない。
人間は、ワイヤレス!!
ワニから伸びる、このケーブルたちは、現実に戻るための足掛かりなんかじゃない!!
我々こそが、現実じゃないのかもしれないのだ!!
思い上がっていた。
このワニの方が、まだ理に適った存在なのかもな。
それでは。
ワイヤレスな存在として、僕等人類は、この電動式回転ワニたちに、何を教えられるのか。
ヒトとして、ワイヤレスらしい回り方を、出来ればしたい、なんて思った。
独立したこの体は、再び乃木坂駅へと姿を消した。