そりゃおそれてるんだから仕方ないわよ
先ほどアマプラで「ボーはおそれている」という映画を見た。
まず、一言で感想を述べると最低だった。
この映画を知ってる人なら分かってくれると思うけど、最低、これは本作に対する最大級の賛辞。って感じ。(押韻)
ざっくり内容を解説すると、三時間ひたすら可哀想な個人が可哀想な目に遭い続ける、というだけのもの。
もう〜さ、何なんだ、人を嫌な気持ちにすることに余念がなさすぎねえか。
二時間みっちり最悪を観せ続けておいてなんで、残り40分のところでさ、アレしてさ、そんでそっちが死ぬんかい、からの、何だ、あっそういう、そういうこと?よくあるアンチ陰謀論映画ってこと?って一瞬思わせてからの、あの、あの生き物は何だったんですか?...からの、終わり方...嫌すぎる...ってか最後その画をバックにロゴ出して終わらすな、恩ないのか配給会社に。
でも観てて何となく、最後の方のシーンで急に、親近感というか、ちょっと主人公の見ている世界に共感というか、あ〜分かるな、まぁでも人生って大方こんな感じだよな、っていう情?なんか、情が湧き出てくる感じがあった。ジョーがわきでている
映画の主人公であるボー(そりゃあタイトルからしてソイツが主人公だわ😁)は、何をするにも極端に不安を携えてしまうような、いわゆる臆病者で、僕も、彼ほどでないにしろ、何処となく、そういう弱気な性分なモンで、同族として、共感...というか、まぁ何だろう、あ〜この感じ分かるわぁ〜、が、ちまちま、あった...希ガス。
不安症的な感覚、と言うべきか。
ンなんかさ〜ァ、不安って凶悪なのよネェ、解る?ほんと、視えてるセカイの姿形をも大きく変えてしまうほどの、強烈な感覚、ソイツが「不安」。遍く人間の精神に適当な分量ずつ混入しているクセに、簡単に人を恒久的バッドトリップに誘う悪魔的ポテンシャルを秘めたまさに劇薬、不安。
【ここからこの記事殆ど映画の話をしません。(主に自身の)不安の話しかしません。】
例えば、単に一人で道を歩いていて、からだの直ぐよこを車が通るとする。
その途端、
「轢かれるんじゃないか」
「車体が電柱に突っ込んで爆発して、それに巻き込まれちまうんじゃないか」
「というか俺が唐突にキレて車をブチ蹴っちゃうんじゃないか」
みたいな、別に具体的にそういうビジョンが次々湧いてくるわけじゃないが、何となく、そういう、いくつかの最悪なパターンを想起してしまう、そういう経験は少なからず、皆往々にして、あるはず。
不安とはそれであり、外の世界で起こるあらゆる現象がその不安を呼び起こすスイッチであり、要するに生きるっていうのは常に、不安に駆られながらそれを掻い潜らなきゃあならんっていうある種の、苦行なわけだ。
自分の隣の部屋で住人が立てる物音、窓の外でうるさく鳴る救急車の音、TVの音、換気扇の音、服の生地やそのタグが肌に触れてる感じ、ほのかに手汗、さっき飲んだ麦茶の味や温度湿度が僅かに口に残ってる、感じ。
部屋で一人こうしてスマホをいじってるだけでも、五感がある限り、不安の種はある。
あいつは場所を選ばない。常に、襲ってくる。
誰かいま俺に怒ってる?
何か虫とかは体にくっついてない?
今日食ったメシ腐ってないよね?
いつの間にか病気してる可能性は?
ってか知らぬ間になんかの犯罪してないよね?
俺はこの部屋で、本当に一人なのか?
誰かに見られてたりしない?
或いは霊的な物は近くにいない?
そういえば人は死んだらどこに行くの?
てか今日寝て、永遠に起きなかったらヤバい
って、いう、やつ。
こういう漠然とした不安は(こうやって文字起こしするまであんまり具体的に意識してるって感覚は生まれないけど、)大方みなさま行住坐臥感じてるはずだし、僕自身も例に漏れず。
生きてて、よく耐えてるなぁ〜とおのれを褒め称えたい。小一時間褒め称えたい(吉野家コピペみたいに)
そんな、繊細で、弱い生き物だから、遍く人生はハードモード。なので、各々が助け合うために社会がある...筈なのに、なんだ、自由経済って!ふざけんな!!野生を否定してニンゲンだけのコミュニティに籠り出したクセしてその中で今更弱肉強食を緩やかに肯定しやがってごめんなさいつい話が逸れてしまったのですが、
兎角、
不安。これが人生に与える影響はきっと多大だ。僕とて不安に敗けて色々やらかしてきたし、多分これからも。
具体的なエピソードはなんか以前書いたエッセイが色々あるので省くわ。
他人という不安に敗けてやりたくもないことをしてしまったり、責任という不安に敗けて自分での意思決定を放棄したり、未来という不安に敗けてやるべきことを先延ばしにして逃げたり、まぁ〜色々してきた。
俺の乗ってるボートはとっくのとうに真っ逆さまっすわ。
そんで、そのまま水底で、指咥えて人間界を見上げる気持ちでダラダラ生きながらえてきた、こっち側からすれば、人間がしばしば不安に打ち勝って何か行動を起こす瞬間というのは決まりきって、眩しすぎる。
例えば、というか、高校生の頃、同級生がまだ受かってもいない(し、そこでの四年間が必ずしも良いものであると約束されてるわけでもないのに)何処かしらデカい大学に合格するために必死に勉強してるのが、意味不明すぎた。
おまえたち、その辺、諸々の、不安はないのか、っていう。
おそれは、ないのか、っていう。
俺たちはおそれているから、賢者にも愚者にもなれない。いい人にも悪い人にもなれない、ずっと、逃げることしかできない。
不安に負けずに押し通せば進む道は幾らでもあったはずなのに、先々に不安を見つけ、逃げ惑っているうちに、選択肢が一つに絞られていて、惰性でそれをとっている。
逆に、そうじゃない人が奇妙に見えてしまうくらい、それが、当たり前なんだ俺みたいな、あの、ボーみたいな人間にとっては。
おそれているんだ、どうしようもなく!
それを言い訳に自らの怠惰を帳消しにしてもらうつもりはないが、それを、その「不安」っていう部分を無視してさぁ、その上でさぁ俺の人生を指してさぁ、「お前は人に優しくできない、正しい行いができないクズだ」なんて言われても響きませんよね?
ね!?!?
逆にこっちからしたら、なんで、なんで自分が人を傷つけるかもしれないのに、
それによって自らが傷つくかもしれないのに、
その不安は確実に「在る」はずなのに、
そこの不安を無視して、
人に優しくしたり、
矢面に立って正義をやったり、
出来るんですか?
頭おかしいんですか?
、
って、感じなんだが!!
なんだが!!!
!!
ふざけんなよ!!!
人間ふざけんな!!
不安に負けない人間気持ち悪いんだよ!!
ふざけんな!!!
強く優しい者たちふざけんな!!
!!!
ついで自由経済も!!
ふざけんな!!!
!!!!
全部ふざけんな!!!!!
僕は、お父さんに会いたくない!!!!!!