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備忘録 品川慕情

 北からやって来たのに湘南新宿ラインの降りる駅を間違えて、横浜駅から品川駅をめざした。品川で京急に乗り換え、二駅目の新馬場駅北口の第一京浜道路側に降り立ったところ、大きな鳥居が見えていた。品川神社の鳥居だなと確認して、鳥居に向かわず逆の商店街のほうに歩き、お昼を食べてから神社に上ることした。この商店街は品川神社の参道になっているらしく街灯のポールに北馬場参道通りとあり、昔は門前町であったのだろうか。

 どこの駅近くでもあるファストフード店を探したが見つからず、地元の古くからあるようなラーメン店に入り、遅い昼食をとった。定食Aを頼んだらラーメンと半チャーハンが出てきた。東京でもこの辺りでは1100円で二品はリーズナブルな値段なのかもしれない。味はそれなりで、繫盛店になるほどではなかった。

 お腹をみたし、チカラを得て品川神社の双竜が彫られた鳥居に向かった。鳥居は第一京浜の歩道 端にあり。横断歩道を渡ってから全体の写真を撮るには歩道が狭いので、道路を横断する前に撮った。鳥居をくぐると直ぐに急な階段があり、途中の踊り場のようなところから左折すると、品川富士塚の登山道で1合目になる。そこになぜか猿田彦神社があり、そのちょっと上段には檻に入った役行者(えんのぎょうじゃ)像が前鬼と後鬼を伴い祀ってあったが由来はわからない。

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 富士塚の2号目から5合目まではりっぱなで幅広の階段で登れる。5号目に着くと富士塚の七割は周れる幅広の回廊になっていて、お 寺の敷地と同じ高さになるためか里宮となる富士浅間神社があった。5合目からは急な勾配になり、参道も狭く鎖につかまって登るのがあたりまえ状態になる。ところが頂上に着くと山頂は平面になっており、20~30人は登ったままでいられるほど広いが奥宮は存在しない。信者は頂上に集い富士山が見える方向に向かって、富士山を遥拝したので奥宮がないと解釈されているらしい。現在、頂上には不粋な避雷針がたっているが、第一京浜を頂上から見下ろせば10階建てのビルほどの高さが感じられる。昔東京に今ほど高いビルがなかった時代にはここから富士山はすっきり全貌がみえたはずだ。登頂し富士山が見える方向に向かって遥拝する仕草をすると、富士山パワーが得られるかもと期待してしまう。

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 品川神社には富士塚以外のパワースポットといわれるのは「一粒万倍の泉」だろう。品川神社の末社になる阿那稲荷神社の中にある泉が源だ。神社の手水舎のような形態で泉が湧いているとおもわれるが水の量は少ない。この泉の水一滴は一万倍のご利益が得られるといわれており、お金をこの泉の水で洗うと万倍になると伝えられている。お金を洗う人のために、一文銭を模して一粒万倍と彫られた石造りの泉水受けがついていて、ザルと柄杓が用意されている。お金を洗って、金運を高めようとする人が後を絶たないからだろう。洗ったお金は参道の店で多少使うとご利益が増すらしい。この水を持ち帰って家の四隅に撒いて暮らすのも吉となると御神水の由来に書いてあった。

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 神社に来る前に参道の商店街でお金を使ってしまい、お金を洗うということもしなかったので、せっかくパワースポットに来たのに恩徳を得られる機会を水に流すようなことになった。じつはこの泉についてはあまり気にしていなかったので、泉の写真もまとも撮ってない。

 品川神社に来た目的は富士塚にあったが、もうひとつは板垣退助の墓があると分かったからだ。若い人は知らないであろうが、100円札が流通してきたときの肖像は板垣退助であった。立派な髭を生やした60歳代の写真が使われている。戊辰戦争のときの英雄であり、自由民権運動の志士として議会を開くことに奮闘したことでも知られている。明治の元勲の一人として挙げられるが、他の元勲と違うところはお金も名誉を求めることなく、普通の人々が対等に暮らすことができる世の中を理想として、個人としてできることを実践した人である。

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 特筆すべきは伯爵の位を下賜される決定がなされたときに、華族という特権階級になることを潔くとせず、固辞し続けたことである。板垣の皇室を敬うこと限りないところ、天皇からの爵位の下賜を受爵できないのは不敬にあたると諭され、自説を曲げて承ることになった。その時代、華族の永代世襲はあたりまえであったが、受爵の伯爵位は一代限りとして、嫡子が世襲できないように不敬にならないように手配したので、世襲されなかった。明治時代に華族という特権階級の位を返上しようとした元勲が他にいただろうか。何という見上げた人物だろう。四民平等を本当の意味で切望していたんだとおもう。

 能力があれば、子孫に財産や称号を残さずとも、それぞれが自立すべきであるとの考えを持っていた。財産の大半は自由民権運動の資金や社会貢献活動につぎ込んだので、先祖伝来の土地屋敷などはまったく残ってないし、東京において豪奢な屋敷を構えることもなかった。山縣有朋などは、生涯何軒の屋敷や庭園を造ったかわからないほど、粋を凝らした建物を多数造っている。もちろん、爵位なども返上していない。

 こんな人物である板垣退助の墓が品川神社あるというのだ。よく考えると、神社にお墓はないでしょ。ではなぜあるかということだ。調べてみたら、品川神社と板垣家の墓所はまったく関係ないことがわかった。ただ現在板垣家の墓所へ行くには品川神社の敷地を通らないといけない状態になっている。ほかからのアクセスの道はなく、墓所のまわりは柵や塀で囲まれていて、開口部は品川神社と繋がっている部分だけなので、唯一墓所に行くには神社を通らなければならない。神社のほうは迷惑だと思っているかもしれない。

 現在、北品川の辺りに東海寺という沢庵和尚がいた寺がある。徳川家によって創建された臨済宗のお寺である。江戸時代まではかなり広い寺域を有していた。大雑把にいって目黒川から御殿山に至る寺域の中には、今の大山墓地も含まれていた。東海寺が創建されたとき鎮守として併設されたのが品川神社なのである。江戸切絵図には東海寺と品川神社と思われる天王社の間に高源院という寺が描き分けられている。この寺が板垣家の菩提寺なのである。

 高源院は当初東海寺の塔頭として建立されたが、のちに独立したものらしいがその経緯を調べたがよくわからなかった。明治に入ると東海寺が政府によって接収されて衰退すると、あおりを食ったかどうかわからないが、高源院が無住の寺になったので、本寺の祥雲寺の住職が兼任していたらしい。ところが関東大震災によって被災しても立て直しもできないために、移転先を世田谷にもとめたのである。高源寺にあったお墓は、その時どうなったかわからないが板垣家の墓所は移転せずに品川に残されたので、高源寺の飛び地墓地になった。

 板垣家が住職のいないような寺に墓地を求めた理由は定かではないが、板垣退助の祖父が1810年に亡くなっていて、高源寺にお墓があったことから考えると納得がいく。祖父の墓は同じ墓地内にあるが移すことは可能な大きさだ。世田谷では不便だということで、品川に残ったとも考えられるが、明治の元勲の墓を軽々に移すことが憚られたともおもわれる。品川神社と板垣家墓地は高台にあり、まわりの低い土地に建物ができたせいで、高低差を解消する急な階段すら作れないほど垂直に土地が利用されたので、神社の方からしか墓所に行けなくなったのだろう。
 
 板垣退助の墓は青山墓地にある後藤象二郎と同じような墓仕様で、板垣家の人々が後藤家に対抗して造った墓ではないかと思われるほど同じだ。隣におなじ形のひと回り小さいお墓は四人目の妻である絹子のものだ。板垣絹子は退助の社会活動を手伝いをするうちに本格的打ち込み、女子教育や慈善事業に幅を広げていった人である。今、南麻布にある広尾学園中高等学校は大正時代に絹子が創立した純心女学校が母体になって現在にいたっている。絹子が芸者をしていた時、退助に見初められて権妻( 明治初期に認められた妻とほぼ同等の側室で戸籍にも記載できる)になったが、先妻の鈴子がなくなったあと、正妻として迎えるために土佐閥の福岡考弟の養女してもらってから婚姻という手続きをしている。世間体を気にしたせいかもしれないが、四民平等を標榜した退助にしては腰が引けている。

 板垣家の墓地には他に、絹子より先に権妻になった清女という人の墓と退助より早くなくなった二人の息子の墓があったがいずれも普通の墓だ。写真を撮ろうと金網まで下がっていこうとしたとき、硬いものにあたったのでなにかと思ったら、カボスの実だった。まだ小ぶりだったが、これからもう少し大きくなるかんじだった。もしかしたら、ゆずだったかもしれないがよく分からなかった。最近高知県でゆずの栽培が盛んらしいので、高知県に因んだ果実を植えたかもしれない。百年近くたった古木とは思えなかったので。

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 墓以外ではひとつの石碑が建っていた。あの有名な「板垣死すとも、自由は死せず」という暴漢に襲われたとき発したことばが彫られてある。土佐から持ち込んだ石に刻んだもので、明治維新100年、板垣退助50回忌を記念して建てられたらしい。有名な話だが板垣を襲った相原某の助命嘆願書を襲われた板垣がだしたので極刑にはならず、それくわえて特別恩赦の嘆願書を提出したので恩赦が認められて釈放されている。謝罪に来た相原某に対して、国を思う動機でおこなう凶行は許されることであるから、板垣が国を誤って導くようなことがあれば再び襲うことも是認している。今の感覚からはかけ離れているが、板垣の国を思う確固たる信念が行動や言説にあらわれている。こういう人は好きすぎる。

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 品川神社の急こう配の階段を下りて、京急青物横丁駅に向かって第一京浜国道の歩道を歩いた。青物横丁駅には40年近く前に毎日のように通った経験がある。今の京急は高架になっているが当時は地上を通っていた。したがって、今の青物横丁駅の様相はうっすら覚えている駅風景を一変する。昔の駅の痕跡さえまったくない。周囲のお寺や旧東海道は何となく変わっていないような気がするが方位のロケーションが違うような感じだ。たぶん方位のロケーションは変わってないのに、高架鉄道にともなってできた新しい建物のせいで、方位の錯覚が起こってしまうのだろう。

 今の青物横丁駅の周囲を回って、過去との接点をさがしたが海雲寺というお寺以外は何もかも変わっていた。途中で太政大臣岩倉具視公御墓参拝道という道標を見つけたので、案内に従って着いたのが海晏寺というところで、早速お墓を探すためにお墓で仕事をしている人に尋ねたら、公開してないから参拝できないといわれたのでがっかりした。この寺の墓地は低いところにある墓と高いところにある墓があり、高い墓地へ行くには柵を越えて行かねばならないが、登口の柵扉に鍵がかかっており柵に無断立入禁止の立札が架かっていた。なぜ非公開なのかわからなかった。昔は道標までできるほど参拝者が多かったのだろうが今ではそれほど多いとは思われないので問題ないのではないか。

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 もう一人、この海晏寺には幕末の四賢侯に名を連ねる松平春嶽の墓もある。春嶽の幕末における業績をあげることは容易いが決定的なものはないような気がする。数多の仕事の中で、明治という年号を決めたのが春嶽であるとするのは定説である。当時は明治を逆から読んで「治めるめい(明)」というざれ歌が流行ったそうだ。保守的な風潮が根強く残っていて、新政府の統治能力を疑問視した結果なんだろう。

 結果として岩倉具視の墓も松平春嶽の墓も参拝できなかったので、ネットで調べたけれども、どれが誰の墓かわからなかった。墓のキャプションには、同じ墓をさして岩倉具視の墓とか松平春嶽の墓とかいっているので混乱すること半端ない。暴論だと思うけれど、こういう誤解を防ぐためにも、一般に墓地を解放すべきだ。
 
 いままでの道草をお終いにして、青物横丁にやって来た目的をはたすために旧東海道を北品川へ向かった。約40年前の一時期、足しげく通ったところを見たいと、品川神社富士塚から眺望したのち足をのばしたのだ。品川に来たついでに青春を回顧するのもいいかなという思いもあった。そこには彼女が住んでいてそこに通っていたのだ。彼女はその時期卒論を書いていてなにかと質問してくるのに、電話で応対していたが電話代がかさむということで、呼び出されたことがならいになったからである。院生であったので頼りにされたせいもあり、積極的女性には弱かったので、自分の勉強もおろそかになるのはわかっていたが、のめり込んでいった。あの時期は何だったんだろうと回顧しても答えはでない。

 その建物を見上げる。外観はきれいに塗装されているので、築年数の重みを感じさせない。あのあたりだったと思われる外観を見上げても、何の感情も起きない。もうあのような情熱も興奮も思い出せないのは必然だ。この時期が以後の運命を狂わした元凶のようなものになったに違いないといまでもおもっている。もう過ぎたことだと一言ではかたずけられない。この老体にはもはや青春は戻ってこない。

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 青春の蹉跌の象徴のようなマンションを背にして、旧東海道品川宿の面影を点在するお寺の中や古色蒼然とした店構えの中に顧みながら、往時のにぎわいを妄想しつつも歩みを止めなかった。

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