強い信念があってはじめて偉大な行動がなされる Strong conviction precedes great actions.
鹿児島への一泊二日の旅をしてきて、スッキリしない疑問が残ったことがあった。幕末から明治中期にかけて輩出した鹿児島出身者のうち、教科書に出てくる人物が非常に狭い一町内出身者であることに気づいたことである。この時代の前にも後にも歴史に記録されるような人物は鹿児島からほとんど輩出していない。動乱の時代に適合した人物が表舞台で活躍できた背景にはなにがあるかと答えを探したときに見出したのが「郷中教育」というシステムだった。
鹿児島市内で最も人材を輩出した町は加治屋町であり、そこから輩出した人物には、西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、吉井友実、村田新八、篠原国幹、山本権兵衛、黒木為禎、井上良馨らがいる。全員が生まれも育ちも加治屋町というわけではないようだが、幕末から明治時代にかけてこれらの人々が日本をけん引したことは間違いない事実であり、明治時代の趨勢を形作った立役者として歴史に刻まれている。彼らに共通する要素は加治屋町で郷中教育を受けただろうと思われることである。列挙した人物は個人的はそれぞれ独自の能力・才能があったかもしれないが、それだけではこれほど多数の人物が誕生するとは思えない。郷中教育には他では見られない独自な教育方法があるのではないかという推論に基づいて考察してみた。
西郷隆盛生誕地の記念碑の傍らに郷中教育の案内説明板があった(第一部の方でも取り上げている)。それによれば、「郷中教育とは同一地域内に住む武家の青少年たちが、勇気と根性を養い、日常のしつけ、武芸の鍛錬をする、薩摩藩独特の自治の教育制度」と書いてあった。
この案内説明板の郷中教育の定義からこの教育法を考えてみる。まず同一地域内での自治に基づく教育制度が郷中教育なら、まず地域はどうなっているかを俯瞰すると。鹿児島城下の町内会に相当する区分に「方限(ほうぎり)」という単位があった。城下全体で33方限があるが、上方限15、下方限18に区分されていた。
上方限: 紙屋谷 上ノ原 城ヶ谷 岩崎 冷水 屯田 後追
韃靼堂 清水馬場 中ノ町 福昌町 内ノ丸 横馬場
中村 実方
下方限: 上ノ平 下の平 新照院 高見馬場 上加治屋町 上荒田
下加治屋町 馬乗馬場 樋之口 新屋敷 塩屋 上之園
高麗町 草牟田 西田 常盤 正建寺 八幡
この方限は数十戸を一単位とする区割りであり、行政単位であったと思われる。この中で下加治屋町方限から多くの人物が誕生した事実はこの方限に謎を解くヒントがあるのではないか。下加治屋町方限では他の方限にはない独自の郷中教育が行われていたと考えると合理性がある。方限には学舎と呼ばれる集団が編成されおり、その方限の青少年が学舎に属して活動していた。その全体を郷中教育と呼んだと思われる。
学舎:イメージとしてはボーイスカウトの活動を想起してもらえばい
い。体の鍛錬や人格・適合性・リーダーシップなどの陶冶だけ
でなく、一般的教育も学び実践する項目に入っていた。ちなみ
にボーイスカウトは学舎の活動から影響を受けた活動といわれ
ている。
大久保利通は高麗町に生まれているが下加治屋町で郷中教育を受けている。ある注釈によれば、利通は五人兄弟の中でただ一人男だったので、教育内容(郷中)を心配して、叔母の加治屋町の家に預けられたので下加治屋町方限の一員になったとあった。預けられた理由はおそらくそんなことではなく、下加治屋町方限の郷中の方が高麗町より優れた指導者や良い点があったからではないか。加治屋町生まれでないのに記念碑が建っている人物、大久保利通、村田新八、篠原国幹、井上良馨らがいるのは、今でいう越境して郷中教育を学舎で受けたみたいなことだったかもしれない。
ただ説明を要する点もある。ぐぐった範囲でしか確認できなかったが、上加治屋町方限出身者で著名な人物がいない事実があることだ。隣り合わせの方限ならば、多少なりとも影響を受けていてもおかしくないはずであるが、上加治屋町方限出身者で著名な人物はいないようなのだ。下加治屋町が下級武士の方限だったが、上加治屋町の方は町人の方限であったとも考えられるが史料が手元にないので今のところ確定はできていない。
では郷中教育とはどんな教育かということになる。方限ごとに住む武士の青少年が集まって教育するされるシステムである。方限に住む青少年を年齢区分で小稚児(こちご、6~10歳)、長稚児(おせちご、11~15歳)、二才(にせ、15~25歳)、長老(おせんし、妻帯した先輩)に4区分し、各グループの仲間同士で、薩摩武士としての心得をまとめた「日新公いろは歌」や「二才咄格式定目」を実践しながら、相互に競い合い学びあいをするのである。詳しく記述すると長くなるので、要約すると、武士としての心得、カラダの鍛錬、基本的学習の習得である。年齢段階に従って、上の年齢のグループが下のグループを指導するシステムになっていた。基本的には先輩が後輩をマンツーマンで教え、習った後輩がより年下の後輩を同様に教えるやりかたが主流だが一斉授業もあった。このようなやり方では方限ごとに後輩の面倒をみる指導者(先輩)によって、育成される者の質が変わっていったと考えられる。
そこで幕末から明治維新にかけて活動した薩摩藩出身者がどの町で生まれ育ったのかを調べて見ようと思った。もちろん本格的な史料もたないので簡便にウィキペディアに載っている記述を頼りに調べたわけだが、定型的記述ではないのでバラバラで正しいのか間違っているのか分からないまま分類した加治屋町出身者が下記に挙げたものになった。ただ概要的には方向性が見えてきた感触をえた気がしている。
下加治屋町方限(今のところ30名)
西郷隆盛 西郷従道 西郷吉二郎 西郷小兵衛 吉井友実 有馬新七
大久保利通 大久保利和 牧野伸顕 大久保利武 黒木為禎 村田経芳
東郷平八郎 東郷四郎兵衛 小倉壮九郎 東郷実武 山本権兵衛
大山綱良 大山巌 大山成美 大山誠之助 田代安定 吉田清英
岩下方平 樺山資紀 橋口兼三 橋口伝蔵 鮫島尚信 鮫島武之助
鮫島盛など
高麗町方限(今のところ15名)
種田政明 弟子丸龍助 野津鎮雄 野津道貫 河野主一郎
淵辺群平 高島鞆之助 井上良馨 益満休之助 奈良原喜左衛門
奈良原繁 海江田信義(有村俊斎) 有村雄介 有村次左衛門
有村国彦など
農村部出身者(現在では鹿児島市内になっている、今のところ9名)
野村忍介 吉原重俊 永山弥一郎 松方正義 川村純義
桐野利秋(中村半次郎) 別府晋介 村上操六 高崎正風
仁礼景範 田中新兵衛 中原猶介 永山弥一郎 野村忍介など
加治屋町から多くの著名な人物が輩出したのは下級武士の世帯が密集していた町だったかもしれないが、決定的なのは郷中教育が他の町より優れた教育をしていたからと言えるのではないか。高麗町方限に比べても倍近くの著名人が出ているのは個人の能力だけではなく、武士として戦うのに必要な状況判断を素早く行い動けるような心と体を鍛える教育が実践されていたからではないかと思われる。単なる机上の学問をするのではなく、実践に使える能力を養う学習をしていた。
この教育に一役かったと思われる教育演習に「詮議」とよばれたものがあった。詮議は、先輩が後輩を集めて現実に起こりうる出来事に対してどう判断してどう行動するかを教育する点に特徴がある。この模擬思考訓練は小稚児の年齢から繰り返し鍛錬される。これを学ぶ場もないことから、集まれる家を後輩が目星をつけた家に行って借りることから始まる。会場では先輩から先人の英雄譚などを聞いたあと、その想定内で違う選択をするとすれば、どうするかを問われる。当てられた後輩は即座の判断で答えなければならない。理屈に合わない判断をすれば、さらなる判断を求められる。小稚児には日常生活におけるトラブルに遭遇したと仮定して、どのように対処するのが理にかなっているかを即断させる。間違った判断なら、他の解決方法を求められる。年齢が上がればそれなりの課題が与えられる。幼児のころから何百回も繰り返しこのような訓練をすることにより、さまざまな事態が起こったとき、適切な判断ができる能力を身につけることができる者が育っていったのではないか。この「詮議」による教育が特に優れていたのが下加治屋町方限だったとすると、政治や軍事で大きな判断を迫られたとき、長年の判断力強化教育の成果が生かされた可能性がある。もちろん判断を誤る場合もあっただろうが、そのような教育をされなかった人に比べて雲泥の差があったのではないか。武士が戦時体制の中で、適切な即応判断で行動できるような演習であることから、戦国時代の遺習がまだ薩摩藩に残っていたといえるかもしれない。
日本人の特徴として語られることは個人では判断することを避け、考えなしに誰か「力」がある者が言ったことや考え方に付和雷同する傾向があるといわれる。たいていの日本人は何であっても答えがひとつであるという教育を受けてきたからだと思われる。日本の学校における教育の大半は答えがひとつであることを前提に教えられる。だから生徒は自ら答えを出さずに、答えを知ろうとする。これは日本の教育が教員によって一方的に正しい答えを教えられる授業しか受けてこなかったからではないか。日本の学校は正しいという答えを無限に覚えることによって将来が開けていくシステムである。なにか自分で決める必要があるとき、自分で考えることをせずに、答えを他から探して付和雷同する癖がついている。
このような国民がいる国では、権力・権威機関によって正しい答えと思いこまされるとすべてが正当ということになり、間違っていたとしても疑問を持たずに受け入れる。権力者にとっては世論に対する判断を大多数の国民が避けるので、権力者に都合の良い世論を仕込んでおけばそれを追認するというか、権威が決めたことが正解だと容認してしまう。明治初期に決められた学制の根本は、全国規模の藩校を創り、各地出身の優秀な人材を養成して、近代化に必要なスキルを身につけた官僚の予備群たらしめることであった。藩規模では会津藩、熊本藩、佐賀藩などが、かかるエリート教育を行って人材を育成し、エリートを藩政に登用して藩の抱えていた課題を解決しようとした。明治政府も近代化のスローガン「富国強兵」という目標を実現するために、帝国大学でエリートを養成し、官僚として登用したのである。だが官僚は判断しない。判断の材料を用意・提供することである。最終的に判断するのが政治家であるが、へぼであれば判断を誤る。
日本の学校教育では郷中教育の「詮議」と呼ばれるような教育はやっていない。教員が一斉授業で有無をいわせないテキストを使い教えるだけである。ただただ受け入れるだけで判断など必要としないから、テキストにあるものには強いがテキストにないものは訓練されていないし、多くの選択肢から即断した経験もないから迷いが生まれるのは自明である。軍事的な面とか政治的な面ではひとつの判断が局面を大きく変えることになるから、何度も繰り返し訓練をやった者にはかなわない。幼少から何度も「詮議」を繰り返して判断した経験が結果に及ぼす影響は極めて大きいのである。薩摩藩で行われていたこのような郷中教育は幕末当時日本中のどの藩でも行われていなかった。
薩摩藩は日本の南端にあり、いわば辺境だった。ここでは他藩では当たり前であった「兵農分離」も不徹底であり、農村にも下級武士が住み、農作業も行っていた。したがって藩全体で教育を徹底することができず、行政単位でやらざるをえなかった。いいかえれば、戦国時代の遺風が残っていた。薩摩藩の藩政の特徴として高禄の家臣は政治にかかわらない家風だったので、小禄の才知ある下級武士から登用されるのが常だった。従って、下級武士は武道に励むとともに役人として有用な才能を磨くことがより良い役職に就ける道だったにちがいない。そのような能力を鍛えるために、郷中教育はとても重要だった。特に小禄で苦しい生活を営む武士にとって、出世するかしないかは死活問題であったはずである。下級武士が住む町の方限では何としても武芸をきわめ、才能を認められ、より良い役職に就くために研鑽することが自分のため、家族のために絶対必要だったにちがいない。
そのような下級武士が住む幾多の方限では、互いに他の方限をライバル視しながら、郷中教育をそれぞれの方限が学舎として全体で行うことにより、有為の人材を藩政に送り込み、後に続く者たちも登用される道すじを郷中教育でつけさせようとしたのではないか。薩摩藩では藩主が強い政治力を持っていたため、藩主案件で役人を選ぶときにあの方限学舎出身なら必要な能力を持っているという評価がされていた可能性がある。現代風でいえば、あの大学出身者ならばハズレは少ないみたいな選択をしていたといえる。幕末の頃、城下33方限あるうち最もしっかり郷中教育をしていると見なされた方限が「下加治屋町方限」ではなかったのか。大久保利通や篠原国幹、有馬新七などは生まれた方限がちがっていたが育ったのが「下加治屋町方限」ということになっている。篠原国幹や有馬新七については、今のところ推測の域をでないが大久保利通については先述したとおり、隣町方限に実家があるのにわざわざ下加治屋町方限の学舎で郷中教育を受けたのである。大久保家は簡単に家を引っ越すことができないので、利通は下加治屋町方限に住んでいた叔母のところに転入までしているのである。今でいうところの住民票を該当の学区に移して、人気の学校に入学するようなものだったのではないか。
欧米では小学生から、講義だけでなく自らの考えを発表する学習やひとつのテーマで何人かが議論する学習が行われてきた。発問授業も普通に行われている。詮議は欧米の教授法に似ている。学んだ知識を基盤として、個性として考えた問題解決に至る解決案を発言できる。間違ってもいい。自分で考えて、判断する訓練を授業でできる仕組みである。日本においては、そのような授業は行われない。膨大な知識だけを生徒に注入するだけで、知識を使えない形でしか理解できてない。日本の教育は先進化した欧米をモデルにして、蓄積された欧米の知識の概要を学ばせてまねることに主眼が置かれている。問題解決のために自ら発想して考えをまとめて結論を出し、発言するような授業がほとんどない。知識は学びたいときに学べるが、情報を自分で分析して判断を下すことは訓練しないとできない。郷中教育において知育は限定的だったが、実践教育は子供のときから何百回も行い、先輩・同輩の話も聞いていれば、この場合は悪いが、この場合はよいなどの経験を踏まえて、最善の選択をすることができる。幕末から明治維新にかけて、少ない情報を基に、重大な判断をしなければならない時に詮議の実践演習はとても役だったはずだ。
大学のゼミも欧米の「詮議」のような制度を取り入れたけれどもほとんど機能していない。ゼミは年少からの訓練があってはじめて学習効果を発揮する。長年の鍛錬があって初めて、個性と個性がぶつかり合う議論ができるのである。経験のない者がゼミに参加しても、発表者が一方的にレジメを読み上げるだけで、議論にならない。ただ聞くだけである。なぜなら聞いて理解することに慣れているので、発表するテーマについて事前学習もせずに出席しているから議論にならない。レジュメ通り理解するだけなら、異論公論が出るはずがない。普通の授業と違うのは先生が若干コメントをする点だけだろう。ゼミはドイツ語ゼミナールSeminarの日本語特有の省略形として使われている。英語ではセミナーseminarであるがセミでは語呂が悪いのでドイツ語の接頭語を使ったのか、ドイツの大学制度の影響から使われるようになったのかもしれない。語源はラテン語のseminariumであり「苗床」を意味していた。苗床は発芽した種が順調に成長するのをアシストするもとである。ゼミの本来の機能は一つのテーマを巡って問題を発見し、議論して、独自の発想力、発言力、判断力を鍛えることである。今の日本人の大半で自分の意見を持っていないのはそのような練習をやっていないことが一因である。なんでも外から受け入れることが善として教育されてきたため、自分で判断を停止したまま(ギリシア哲学ではエポケーという)、羊の群れのように魚の群れように前の集団についていけばなんとかなると判断停止している。
このような日本人のありようを改めようとするならば、小学生から少数学級で発問授業や生徒間の討論を主とする授業に転換しなければならない。さまざまな状況の中で、情報に基づいてさまざま事象を独自な発想力・想像力で自己判断できる能力を育むことができる人々が増えるならば、一部のエリートが自分の利害のためのみの世論誘導を図り、実を掠め取るという横暴を許さない人々が増えるはずだ。そのような時代がくるならば、健全な民主主義とともに、新しい日本における新発想の技術革新が起こり、国民を豊かにするはずである。
実際は日本の学校教育が決められない国民を育てている。日本国民の大半は自分で決められないので、権威や権力者が決めたことを無批判に受け入れてしまうことになる。学習では答えは一つであり、教えられるものであるという先入観を教育されてきたからである。たとえば政府が原発に関する問題で決定したことが唯一の答えであるとして、自分で思考することなく受け入れてしまう素地を学校教育は育んできたのである。特にこの傾向は戦前の教育ではひどかった。
明治維新以降、欧米に追いつき追い越せをスローガンとしたとき、答えがたくさんある場合があるなどと教育した場合、日本の近代化の障害や遅れになったはずだ。国民全体が一丸となって事に当たらなければ短日月で近代化の目標は達成できない。必要な知識を異論公論なく知らしめ、有無を言わせず従わせる画一的教育はある時期までうまくいったが、近代化の目標を達成したとき、モデルを見失ってしまい、独自のアイディアを発想できないジレンマにおちいった。欧米、特にヨーロッパでは長い年月をかけて障害を乗り越えて達成した近代化であったので、まだ違う答えを求める余地を残していた。今の答えがダメなら、ある時点に戻って、新しいパラダイムを模索することができる融通性があった。しかし、日本は融通性がなく、同じ方向性以外選択肢がなく突き進むしかなかった。
明治維新の近代化が招いた英仏独猿真似政策が破綻した結果、終戦を迎えてこれまでの近代化がご破算になると、またゼロからの出発ということで、またまた明治維新の焼き直しとして昭和維新を国民一丸となって「戦後復興」の美名のもとに行うことにより、国際情勢の後押しを今回もうけて、短い期間で先進国の仲間入りをはたすことができた。戦前もそうであったように、戦後も70年以上も経つと戦前の教訓を忘れ、国を国民生活をまたまた破綻の方向へ導こうとする勢力が台頭跋扈して、破滅の方向に導こうとしている。これからもどんな悲惨な状況の下で暮らすことを強いられるかわからない。明治、昭和に続いて令和の時代にも国民の悲惨な大量死や飢餓寸前の食糧不足の時代が訪れるかもしれない。その一端は日本の教育制度が加担したのである。