紅茶は効茶なり
1ボストン茶会事件
史実を詳しく調べたわけでもないが、1773年12月16日に起こったボストン茶会事件で港に投棄された「お茶」は緑茶だったらしいのです。私がこの歴史を学んだ当時は、そんなことは想像すらできずに、紅茶だろうと決めつけていたのです。通俗歴史書には、ボストン港はまっかに染まったと書いてあった記憶があります。今考えてみるとこの記述は文学的表現であり、革命の始まり、すなわち植民地人の血を流す行為の象徴として読者を引き付けようとしたのかもしれません。
2紅茶の起源
紅茶が本格的に紅茶としてつくられるようになったのは19世紀に入ってからです。1823年にインドで新種高木系のアッサム種が発見されてからつくられるようになったらしいです。したがって、18世紀のアメリカが輸入したのは低木系の緑茶の可能性が高いのです。緑茶以外の中国茶、たとえばウーロン茶なども考えられるが、水色が赤になるものはないだろう。
3お茶の積み出し港によって、名称が変わってしまったわけ
紅茶は英語でブラック・ティblack teaと呼ばれるが、なぜ相反する名前がついているのか不思議だったのです。相違は着眼点の違いにあるらしいのです。茶葉に注目すれば、ブラックになり、水色に着目すれば紅色ということになります。ポルトガルが南のマカオから運んだものをchá=チャと発音していたが(現在の発音はシャ)、オランダが北のアモイから運んだものをte,tei=テーと呼び、それら二系統が世界に流布しているようです。中国の場合、昔は漢字が同じでも発音が全く違うことが当たり前だったから、こういうことが起こりえます。音声文字はこの点融通が利かないが、表意文字なら発音の壁を乗り越えることができるのです。日本語の漢字の読みは、中国語の発音と違ってますが、過去に遡るほど意味は同じだったはずです。だだっ広い中国で、紀元前から大帝国が連綿と続き、統治できたのは漢字という共通の表意文字のおかげであるといわれるのも一理あります。皇帝は各地方の役人・軍人に、発音を無視した漢字で命令を伝えることができたから中国を統治できたのです。科挙という制度も、皇帝の命令文を書式にのっとり、正確に書くための官僚を養成する必要条件だったのです。日本には漢字と共に入ってきて、音読した結果であったろう。だが大陸の陸路で伝わったものもチャといったらしいのだが、この流れとは別系統だろうと思われます。
4ヨーロッパにおける紅茶の普及と効用
ヨーロッパに伝わった「茶」はイギリスでは全国民的に飲用されるようになっていきます。植民地であったインドで生産された紅茶は本国での消費拡大によって植民地経済を潤し、本国経済にも多大なる貢献をしたはずです。以前のイギリスはお茶を中国からの輸入に頼っていたので、植民地インドで生産できたことにより自国通貨の流出量を減らすことに役立ったのです。
ヨーロッパでの飲料は紅茶圏とコーヒー圏に分かれますが、その説明の際に持ち出されるは硬水と軟水の問題です。大陸は硬水が主であり、紅茶が普及せず、コーヒーが主流になったといわれています。じゃイギリスの水は軟水なのかといえば、必ずしもそうではないらしい。産業革命時に毎日決まった時間から決まった時間まで働くために、気持ちを奮い立たせる飲料は欠かせないものであったろうし、安く手に入るものならそちらを選んだろうから植民地から運ばれる紅茶は価格の上でリーズナブルなものだったに違いないのです。
5お茶を楽しむ習慣
労働者階級は空腹をまぎらわせるために紅茶を飲んでいたらしいが、他の階級の人たちはお茶の時間を楽しんでいたのです。お茶の時間を表す言葉も、イギリスではたくさんあります。アフタヌーン・ティー、ハイ・ティー、ローティー、クリーム・ティー、イレブンシス、アーリーモーニング・ティー、アフターディナー・ティーなどです。朝から夜半まで、次々にお茶の時間があり、単にお茶だけでなく、ビスケットやクッキーなどの比較的軽いものから、普通の食事と共に食べ飲むものまで多種多様にあります。上流階級では日々の行事の合間にお茶を楽しむのも貴重なコミュニケーション手段だったのです。だがミドルクラスなどの茶会はかなりくだけたものが茶受けとして出されていたようです。
6『不思議の国のアリス』の茶会はどこがマッドか?
ルイス・キャロルの『不思議な国のアリス』の中にmad tea party というくだりがあります。訳者の矢田澄子は「め茶く茶会」として、日本語の融通無碍を遺憾なく発揮しているのですが、こんなにくだけた訳でいいものだろうかと不安にもなってきます。この茶会がどうしてマッドなのか分からないのです。
アリスがこの茶会に出くわしたとき、
Alice looked all round the table, but there was nothing on it but tea.
テーブルの周りをぐるっと見回したけど、お茶以外なにもありゃしない
と言っている。大きなテーブルに、たくさんの茶器が並んでいながら、参加者は3名で、茶うけなどなにもないのです。これは日本でいうところの空茶でしょうか。
この本の挿絵を描いた金子國義やJ.Tennelなどはイラストに原文通り何も描いてないが、A.Rackhamは茶器やポットのほかに、クッキーかビスケットを盛ったお皿を描いているのです。L.キャロルは茶会に茶受けもでてない普通でないさまを通して、マッドさを表現しようしたのかもしれないが、ラックハムは絵におさまりがつかないという理由で描いたのかもしれないのです。
7クッキーやビスケットの重要性
絵柄として、茶うけがないという状況はイギリス人にとって、欠くべからずのものがない不安定な状態をなしていると感じられたから、描き加えられたと考えたいのです。それほど左様に、お茶と茶うけは切っても切れない関係にあることは、19世紀には自明の理だったのでしょう。日本でもまた同様です。
8紅茶とマドレーヌの相互作用関係と小説のテーマ
お茶と一緒に食べるお菓子(茶うけ)との関連で最も有名なエピソードは、「紅茶とマドレーヌ」です。マルセル プルースト『失われた時を求めてA la recherche du temps perdu』では、主人公がお茶にマドレーヌを浸して食べた時、今まで思い出すことができなかった記憶を思い出すことができるアイテムになるのです。幼い時、くり返した行為が誘因となって、過去の情景が現在に蘇ってくるようなことを無意志的記憶というらしいが、このことが転機になって、この長大な小説は大きく物語が展開していくのです。
9無意識的記憶を呼び覚ます飲み物は紅茶ではない
このエピソードは日本ではたいていお茶は紅茶と決まっているようだが、原文では紅茶theという単語をつかっているが、実際のところは違うようです。
Je portai a mes levres une cuilleree du the ou j’avais laisee s’amollir un morceau de madoleine.
私はマドレーヌの一片をお茶で柔らかにしているスプーンを唇に運んだ。
この場面は母親が用意してくれたお茶とマドレーヌの組み合わせで無意志的記憶が蘇る場面です。
ところが4段落後に、
Et des que j’eus reconnu le gout du morceau de madoleine trempe dans le tilleul que me donnait ma tant...............
わたしの伯母が私に供してくれた、ティユルに浸けたマドレーヌの一片の風味だと識別する や否、.....................
この場面では、伯母が用意してくれたものが、ティユル茶とマドレーヌであり、結果として過去の情景が蘇ることになるわけです。
また、中ほどで
Quand j’allais lui dire bonjour dans sa chambre, ma tante Leonie m’offrait apres l’avoir trempe dans son infusion de the ou de tilleul.
私が部屋におはようを言いに行ったとき、伯母レオニーはマドレーヌをお茶やティユルで柔らかくした後で私に差し出してくれた。
このシーンは過去に繰り返された事実があり、その記憶が風味の感覚と相まって、今まで意識の外にあった記憶が呼び覚まされてくるのです。
10ティユル茶とはどんなもの
叔母が用意してくれたのは紅茶もあったかもしれないが、記憶をヒットさせたのは、ティユル茶ということになります。母親が出してくれたのも、ティユル茶じゃないと論理的でないだろう。ではティユル茶とは何ぞやということになります。
ティユル茶とは菩提樹の葉や苞を乾燥させて作ったハーブティーです。菩提樹はシナノキ科の植物であり、リンデン、ライム、しなのきとは同系統に属します。ヨーロッパのものは西洋シナノキといって日本のものとは多少違っている。シューベルトの歌曲「冬の旅」のリンデンバウムder Lindenbaumはこの木である。中世では自由の象徴とされていたらしいのです。お茶の効用としては体をリラックスさせ、鎮痛効果もあるらしく、とくにフランスでよく飲まれているらしいが、お目にかかったことはないです。
私も偉大な巨人プルーストをまねて、紅茶にマドレーヌを浸して食べたら、大作家になれるかもしれないと、何度かくり返したことがあったのですが茶の種類を間違えていたらしい。今度フランスに行ったら、大量にティユル茶を買い込んで、再度挑戦したいものです。当分、フランスに行く予定はありませんが!