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私が一時保護を粘った話

私は
何回か児童相談所に保護をしてもらっていたことがある。その何回目かの保護がかなり労力のいるものだった。

私はある日家を出ることを決意した。
理由は、母からの精神的虐待と重度の障害を持つきょうだいのケアに疲れたからだった。昼夜問わずパニックを起こす、きょうだいのケアに追われた。母がやってくれる日もあったが、体感的に私の方が頻度が高かったように思う。

当時10代後半だった私。部活も朝早くから練習があるような強豪校だった。忘れ物やミスも多く、顧問に叱責されることも多かった。全部「お前の管理不足」だと言われたこともある。家に帰れば、障害を持つ弟に勉強を教えたり、パニックを起こして、大声や奇声を出さないように気を張った生活を送っていた。

どれだけ頑張っても、頑張っても、母から認めてもらえることや褒めてもらえることなんて無かった。逆に私が4歳の頃から「お前の話す言葉、話し方、行動全てが気持ち悪い」と言われ続けた。ストレスで段々と眠ることも食事をとることもできなくなった。勉強をする力も無く、ある日突然私は不登校になった。

誰かに愛されたくて、誰かに認められたくて、私はSNSに依存するようになった。

段々と昼夜逆転生活になっていった。
深夜にこっそり家を出て近所を出歩く日々。その時間は、パニックを起こした弟の奇声や泣き声。それをどなりつける母の声も聞こえなくて、心落ち着く時間だった。

朝が来ると母が起きてくる。
「今日は学校に行けるよな?」
「お願いだから行って。行け。」と胸ぐらを掴まれて揺さぶられる毎日だった。

お前がなんで学校に行けないのか
本音を知りたいから話せと言われた日。

私は声も出ず涙しか出なかった。
4歳からずっと言動全てを否定され続けたのに今更本音なんか言えるものか、。と悲しさと悔しさがあった。

その涙も泣き声も汚い。
気持ち悪い。と言われティッシュ箱を投げつけられた。

限界を感じた私は母に「私はこんな人生なら死にたい。」と言った。それが当時の私の1番の望みだった。消えてなくなりたかった。

「なんで突然そんな言葉が出るのか分からない」
この母のひと言で
「あぁ、血の繋がりはあれど私はこの人と一緒に居てはいけない。殺される。」
そう思った。実際学校に行けないなら死ねと言われたこともある。

家を出たい。
でも、助けてとSOSを出せる自信が無い。
そんなような事を私はSNSに書いた。
ある友人が死ぬくらいなら
憎いと家族を殺してしまうくらいなら
毎日あなたが死にたい思いに支配されて
死ぬ事ばかり考えて自傷に走ってしまうのなら

逃げなさい

むしろ逃げろ。自分の人生を歩め。

そう言ってくれた。

私は我慢できなくて
おもちゃの包丁で弟を家中追いかけ回して刺したことがある。
トイレと壁の間に弟を追い詰めて両親の様に弟を殴り続けた日もある。

もう嫌だ。死んでしまいたい。
両手で動脈を絞めて痣になるまで
自分を傷付けることでしか自分を保てなくなってしまっていた。

しらすのメモ帳。
筆箱に入っていた私のお気に入りのメモ帳。

それに
「以前児童相談所に保護されていました。」
「保護をしてください。」
「絶対に家には帰りません。」
と震える手で書いた。

2月のまだまだ凍てつく寒さの冬。深夜帯。
制服姿のまま警察署に入る勇気も無く
ただただ
そのメモといくつかの荷物を持って、警察署の前に座った。何分後かに防犯カメラ越しに私に気付いたらしく、1人の警官の方が声をかけてくれた。
事情を聞いてもらうと、
「各私の個人情報、親の個人情報」
※当時私が未成年だったため。
「あなたは精神疾患があるか」
「精神科・心療内科に通っているのか」
「保護を希望する理由」
「家庭以外に帰れる場所はないか」
「その家の電話番号」
を聞かれた。

どうにか帰らせようとしてきた。

それでも私は諦めなかった。家庭に居たら、自分が死ぬか家族を殺してしまうと思ったから。

警察に私の気持ちなんか分かるはずない。
だって、それなりに家庭が裕福か理解がある家庭でなければ、ひとを助けたいという余裕。
警察学校にも行けないと思うからだ。

何を言われてもいい。私は絶対に保護してもらう。そんな覚悟で

「以前児童相談所に保護されていました。」
「保護をしてください。」
「絶対に家には帰りません。」

と書いたメモを何時間も泣きながら
半分過呼吸を起こしながら、
複数の警察官に囲まれながらも提示し続けた。

これは一部かもしれない。でも、私を責めるような質問の仕方をする警官の人が本当に多い。それでも諦めずに同じ言葉を繰り返した。

最終的に警察署に親も呼び出され別室で母からも聞き取りをおこなったらしく、男性警官の人から「お前は親に怒られたくないから帰りたくないのか?」と半分責められるように聞かれた。
私は「そうじゃない」と泣きながら答えた。

気も動転して泣き過ぎて頭もパニック状態だった。帰れと言われる中、私は帰らないと叫び続けた。
1枚のコピー用紙に「私は親に怒られたくないので帰りません」と一筆書いたら明日の朝児相を呼んでやると言われた。

それが1番の難関でした。
おそらく多くの人はそこで諦めてしまう。
泣き寝入りをしてしまう。

でも、そんなことしなくていい。
あなたはあなたなりに自分の人生歩んでいい。

警察署で1晩を明かし、その後児相職員の人に児童相談所へ連れて行かれた。私は、○○施設に行きたいと言った。そこへ電話をかけてもらい、自立援助ホームは空いていないが同じ系列のシェルターが空いており、そこに入ることが出来た。その後私は自立援助ホームに入所し、2年お世話になる。

警察・児童相談所職員。
まだまだ理解者になってもらえることは少ないかもしれない。でも、私はその先に施設職員さん。里親さん。似た経験をした人達に出会えました。

勇気をだして助けてと言っても
正直思った言葉は返ってこないと思う。
それでも、私は助けを求めてよかったと思っている。児相も施設の先生も当たり外れはある。でも、中には気持ちに寄り添ってくれる先生も居た。

辛かったね。よく頑張ったね。ここまで助けを求めてくれてありがとうと言われたこともある。

2023/02/13 16:57

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