『やまなし』宮沢賢治 「絵本のような世界だ」と、空想的に
このnoteは、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語る設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。
『やまなし』宮沢賢治
【宮沢賢治の作品を語る上でのポイント】
①「賢治」と呼ぶ
②絵本のようだと言う
の2点です。
①に関して、どの分野でも通の人は名称を省略して呼びます。文学でもしかり。「賢治」と呼び捨てで語ることで、文学青年感1割り増しです。ただ、太宰や芥川など他の文豪は大抵苗字呼び捨てですが、賢治は名前呼び捨てですね。何ででしょうか。
②に関して、宮沢賢治の作品の多くが絵本化されています。文章を読んで絵本のようだと思ったのか、それとも絵本を見たことがあるからそう思ったのかは定かではありませんが、実際その文章はとても美しく絵画的です。
○以下会話
■絵本のような世界
「幻想的な小説か。そうだな、宮沢賢治の『やまなし』がオススメかな。小学校の国語で扱うから何となく覚えてるかな。大人になった今読み返してみると、新たな発見があって面白いよ。
内容は覚えてる?5月の川の底で蟹の兄弟が話してるところから始まるんだ。蟹の頭上にはクラムボンがカプカプ笑ってる。魚がウロウロと泳いでいると、突然黒い鉄砲玉のようなものが飛び込んでくる。コンパスのように黒く尖っているそれは、魚の白い腹を一瞬光らせて、上の方へ登っていく。それっきり、魚も鉄砲玉も消えてしまう。蟹の兄弟が震えていると、お父さんがやってきてそれは「かわせみ」だと教えてくれる。
12月、蟹の兄弟は泡を飛ばして遊んでる。すると、ドブンと黒い円い大きなものが天井から落ちてくる。「かわせみだ」と兄弟は怖がるが、お父さんが、「あれはやまなしだよ」と教えてくれる。流れていくやまなしを追いかけると、やまなしの良い香りが水の中にいっぱいになる。木の枝に引っかかったやまなしを見て、お父さんは「2日後にまた来よう。美味しいお酒ができているさ」と言う。蟹の親子は家に帰る。
というお話なんだ。思い出した?絵本みたいな情景だよね。
小学校の先生になった友達は、『やまなし』は解釈が難しいから、授業を組み立てるのが難しいって言ってた。教師泣かせの作品らしい。
国語の教材になるくらいだから、色々と掘り下げられる部分はあるんだけど、ここからは、①クラムボンの正体、②消えた「11月」、③二枚の青い幻燈とは、④タイトルに込められて思い、の4つのテーマに分けて話していくね。
■クラムボンの正体
やっぱり「クラムボン」が印象的だよね。蟹の兄弟が「クラムボンが笑ったよ」「クラムボンがカプカプ笑ったよ」って会話していて、何の説明もなしにクラムボンという物体が登場するんだよ。小学校の授業でも先生が「クラムボンって一体何でしょうか。みんなで考えてみましょう」って言ってた。当時僕は何故だか「クラムボンは泡だ」って確信してたんだよね。それで授業で「クラムボンは泡のことだと思います」って発表したら、先生が「なるほど、それも考えられますね。誰か他の意見はありますか?」って言ってて、「え、正解一つじゃないの?他にあるの?」って困惑した覚えがある。
学者の中でも解釈は分かれていて、「光説」とか「crab(蟹)説」とか「妹のトシ子説」とか色々あるんだ。一番主流なのが「正体をつきとめる必要はない」派らしいんだ。なんだそれって思うけど、まあこれが正解なのかなって感じだよね。でも、小学生の当時の僕が確信していた、クラムボン=泡という考えは決して間違えではなくて、むしろ子ども向けに書かれた童話なのだから、正真正銘子どもだった当時の僕の解釈の方が「当たってる」かもしれないよね。
■5月と「12月」
『やまなし』は、発表前の下書きの段階の原稿が残ってるんだ。それを読むと、出版された文章と違う部分がいくつかあって、その一つが「月の設定」なんだ。公式では『やまなし』は、かわせみが出てくる5月とやまなしが出てくる12月の2章に分かれているんだけど、下書きでは、5月と「11月」で分かれているんだよ。実際、ヤマナシが実るのは秋で、川にヤマナシが落ちてくるという情景的には11月の方が正確なんだ。『やまなし』は、岩手毎日新聞で初掲載されたんだけど、その新聞社の人が、「十一月」を「十二月」に見間違えた説があるんだ。月を間違えても特に何も起こらないけど、何かちょっと面白いよね。
■二枚の青い幻燈
『やまなし』は、冒頭の文章の意味がわかりにくいんだよ。
小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。
二ひきの蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』<後略>
これが冒頭の文章。「幻燈」はガラスに描かれた絵に光を当ててスクリーンに映し出す、映写機のことなんだ。この文章の後すぐ、蟹の兄弟がクラムボンの話をしてる描写に移るけど、幻燈に馴染みがないのも相まって、この冒頭の文章が何を意味してるのかよく分からないんだよね。
ここで下書きの原稿を見ると、冒頭は
小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈を見て下さい。
と書いてるんだ。「見て下さい」だと意味がわかるよね。つまりこの童話は、語り手が二枚の青い絵(幻燈)をスクリーンに映して、紙芝居のように二匹の蟹のお話を語る構造になってるんだよ。
Youtubeに「でくのぼう宮沢賢治の会」の方が『やまなし』の朗読をする動画があって、まさにこれが「小さな谷川の底を写した二枚の蒼い幻燈」の世界観に近いと思う。
■『やまなし』というタイトルに込められた思い
『やまなし』ってタイトル不思議だと思わない?やまなしは物語の後半にドブンって出てくるけど、この童話は主に二匹の蟹がメインだよね。だから『二匹の蟹』とか『蟹の兄弟』ってタイトルが自然なはずなんだ。事実宮沢賢治の他の作品は、『風の又三郎』とか『オツベルと象』とか、主人公がタイトルになってるのが多いんだよ。主人公じゃない登場人物でタイトルを付けるとしても『かわせみ』でも『クラムボン』でも良さそうだよね。何故「やまなし」を選んだのか。
ここで、やまなしの登場シーンを見てみると、
そのとき、トブン。黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金のぶちがひかりました。『かわせみだ』子供らの蟹は頸をすくめて云いました。お父さんの蟹は<中略>云いました。『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂いだな』なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
って書いてるんだ。この後やまなしは木に引っかかり美味しいお酒になってくれる。つまり蟹たちに食されるやまなしは、みずみずしい豊かさをもたらす存在なんだ。
ここで同じ「水中に入ってくるもの」を見ると、「5月」では、かわせみが魚をさらっていく。一方「12月」では、やまなしが蟹に恵みをもたらす。「かわせみ」と「やまなし」が対比されているよね。そして、宮沢賢治はこの物語に『かわせみ』ではなく『やまなし』と名付けている。奪いの象徴の「かわせみ」ではなく、与える象徴の「やまなし」の役割をクローズアップさせた。つまり、「奪うより与えよ」というテーマがこの物語にあって、そこに注目して欲しかったから、タイトルを『やまなし』にしたんだ。あくまで僕の解釈だけど。
それと、宮沢賢治は生前、厳格ではないけどベジタリアンだったんだ。だから、肉食に対する嫌悪感があって、かわせみが魚を捕らえるように、「生き物の命を奪う人間の食生活」を非難する気持ちが『やまなし』というタイトルに込められているのかもしれないね。
こんな感じで色々解釈できて、「小学生の頃はこんなに考えが廻らなかったな。大人になったな。」って思えて楽しいから是非読んでみて。」