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『檸檬』梶井基次郎 「自分の機嫌は自分で取る」

このnoteは、まだ本を読んでいない人に対して、その本の内容をカッコよく語る設定で書いています。なのでこの文章のままあなたも、お友達、後輩、恋人に語れます。 ぜひ文学をダシにしてカッコよく生きてください。

『檸檬』梶井基次郎

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【梶井基次郎を語る上でのポイント】

①短命に言及する

②気楽さを褒める

①に関しては、梶井基次郎は肺結核により31歳で亡くなりました。闘病しながら書いた作品には彼の死生観が表現されていてとても読み応えがあります。

②に関しては、梶井基次郎の作品は比較的短い小説が多く、読書が苦手な方でも読みやすく人に薦めやすいです。


○以下会話

■色とりどりな小説

 「何度も読み返してる小説か。そうだな、それなら梶井基次郎の『檸檬』かな。高校の現代文の教科書にも載ってる有名な小説だから、みんな一回は読んだことあるよね。丸善に檸檬を置いて立ち去る描写が印象的で、きっと好きって人も多いはず。僕も好き。というのも、僕が本を好きになったきっかけはこの『檸檬』なんだ。

僕は小学生の頃、本を読むのが好きじゃなかったんだ。多くの小学生男子がそうであるように、家の中でじっと本を読むより、外でドッジボールをする方が楽しかったんだ。国語の授業はほとんど聞いてなかったし、宿題の音読も、一度もやらずに勝手に音読カードにハンコを押してた。

そんな小学生だったから、国語の成績が異様に悪かったんだ。ある日、母親がさすがに国語のできなさを心配して「なんで本読むの嫌いなの?」って聞いてきたんだよ。「なんでって言われてもな」って困って、苦し紛れに「色がないから」って答えたんだ。当時、同じ「家の中でじっとやる作業」でも、絵を描くのは好きだったんだ。色いっぱいのカラフルなお絵かきに比べて、白い紙と黒い文字で構成される本は、内容以前に視覚的につまらなかったんだよね。

そしたら母親が「想像しながら読んでみて。色がたくさん出てくるよ」と言って梶井基次郎の『檸檬』を買ってくれたんだ。

小学生の僕には内容は難しくて理解できなかったけど、小説の中に出てくる物を想像しながら読んでいくと、向日葵、清潔な布団、縞模様の花火の束、びいどろ、南京玉、石鹸、そして檸檬といった「見すぼらしくて美しいもの」が色彩豊かにカラフルに浮かんできて、初めて本を「おもしろい!」って思えたんだよ。

それ以来、本を好きになれたんだ。『檸檬』そしてお母さんに感謝だよ。

■積み重ねられた画集の上に檸檬ひとつ

『檸檬』はとてもシンプルな小説なんだよ。主人公は、「えたいの知れない不吉な塊」に心を抑えつけられている「私」。この精神を病んでる「私」が、壊れかかった街並みとか、安っぽい色の花火とか、見すぼらしくて美しいものに強く惹かれていく、という話なんだ。

そんな「私」がある日、街をさまよっていると、一軒の果物屋を見つけるんだ。直感が働いて、その果物屋で檸檬を一つ購入するんだ。檸檬の冴えた色と、紡錘型の形と、爽やかな匂いと、冷たい手触りが、段々と「私」の精神を落ち着かせて、気分が軽くなるんだよ。

「私」は精神を病んでいたから、長いこと楽しいものを見る気分にならなかったんだ。だから、心躍る文房具や画集が売ってる、かつてお気に入りの場所だった本屋の丸善を避けていたんだ。でも今は檸檬を持って最強になってるから、そんな丸善に行ってみる勇気が出てきたんだよ。そして「私」は丸善に入ってみるんだ。

画集コーナーに行って、緊張しながらお気に入りの画集をとってみるんだ。だけど、また段々と憂鬱になってきて、画集の重みを強く感じてきて、元の棚にも戻せなくなってしまうんだよ。

「もう駄目だ。帰ろうかな」と思ったその時、着物の袖に入ってる檸檬に触れて、ふと「これを積み上げてみたらどうだろう」と思いつくんだ。「私」は色とりどりの画集を棚から取り出して、手当たり次第ゴチャゴチャに積み重ねていくんだよ。引き抜いたり付け加えたりしていくと、赤や青のいろんな色をした塔ができたんだ。

次に「私」は、ワクワクした気持ちを押さえながら、そのてっぺんに檸檬を乗せてみたんだ。すると、檸檬のレモン色がカーンと冴えて、そこだけ空気が緊張しているよな、ものすごい美しさになったんだ。それをしばらく見て、「私」は嬉しくてしょうがなくなって、さらに「このまま何食わぬ顔で外に出ちゃおう」という悪さを思いついて、そのまま丸善を出ちゃうんだ。

「私」は、くすぐったい可笑しい気持ちになって、「もしあれが爆弾だったら、あの息が詰まる丸善も木っ端微塵だな」って、楽しくてしょうがない高揚感を味わって、京都の街を帰っていった。というお話なんだ。

■自分の機嫌は自分で取る

『檸檬』が多くの人に愛されている理由の一つは「主人公の自分の機嫌の取り方が分かりやすい」からだと思うんだ。

『檸檬』を一言で言うと、主人公が「えたいの知れない不吉な塊」から逃げるお話だよね。冒頭で精神的に病んでいた「私」は、物語の中で精神を回復していく。その回復する方法が「楽しいことをする」というとても分かりやすい方法なんだ。

例えば文豪と呼ばれる夏目漱石とか三島由紀夫とかの小説にも精神的に病んでる主人公が登場するよね。でもその主人公が精神を回復する方法は、大抵が「精神的な境地に達する」という方法なんだ。つまり深く悩んだ葛藤とか自責の念とか美意識といった心理的な試みによって精神を回復させるんだよね。これはこれで読み応えがあって面白いけど、正直に言ってしまえば「難しい」んだよね。

一方、『檸檬』に出てくる「私」は、哲学的な考えや、難解な言動はせずに、「びいどろキレイ!」とか「檸檬いい匂い!」とか、楽しいモノに触れて自分の機嫌をとっていくんだよ。そして最後の「本屋さんの画本を積み重ねて檸檬を置いて店を出て、悪さをした高揚感を味わう」という行為も分かりやすい。この「分かりやすさ」が『檸檬』に親近感を覚えるんだよね。

実際に僕らが落ち込んだときの行動を思い出してみると、趣味に没頭したり、美味しい物を食べたり、美しい景色を見たり、友達と会ったりと、外から何かを摂取することで元気を取り戻すよね。夏目漱石とか三島由紀夫の小説の主人公のように、深く考え込んだり、哲学的な境地に達することで、内から気分を回復する人は少ないと思うんだ。

『檸檬』の「私」の機嫌の取り方は、純文学の主人公にしては、理解しやすい方法なんだよね。

■分からないけど、なんか良い

だから『檸檬』を楽しむ方法は、難しく分析せずに「何となく良いから」という感覚的なものでいいと思うんだ。なぜなら主人公の「私」が感覚的に物事を受け止めているから。振り返ってみると「私」の行動は全部何となく分かるんだよね。

精神を病んでる時に、「見すぼらしくて美しいもの」に惹かれるのは分かる。壊れかかった街も良いし、オンボロな街並みにびっくりするような向日葵やカンナが咲いてるのも良い。安っぽい絵具で彩られた花火の束も良いし、おはじきも良い。それをなめてみて幽かな涼しい味を感じるのも良い。檸檬のレモン色の絵具を固めたような単純な色も、紡錘型の形も、火照った体を冷ます心地よい冷たさも、産地のカリフォルニアを想像させる鼻を打つ爽やかな匂いも、とても良い。檸檬があるだけで興奮して避けてた場所に行けるのも分かるし、画集が重くて気怠くなるのも分かる。色とりどりな画集を積み重ねて山を作る高揚感も分かるし、そのてっぺんに檸檬を置いてカーンと冴える檸檬の感じも分かる。そしてそれをそのままにして何食わぬ顔で丸善を出ていく愉快さもとても分かる。

「私」の行動は全部直感的に「なんか良い」と思えるから、「私」の気分の浮き沈みをそのまま理解できて、最後に残った高揚とか爽快さが、「面白い小説だった」という印象に結びつくんだろうね。

『檸檬』は、色彩豊かで直感的に楽しめる小説だから、きっと何度も何度も楽しめると思う。是非読んでみて。」


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