【再編|絶望三部作】第3話(最終話):Evermore(第1章:猫のいる風景)
第1章:猫のいる風景
◆ 第3話:遠い国
納車したばかりの中古車に、小ぶりのスーツケースと愛用のバックパック、猫用のキャリーケースと簡易トイレを乗せて、東北地方のとある県の " とある山の頂 " を目指し、俺は家を出た。
この日、ついにハルとふたりで旅へ出かけることになったのだ。そして、この旅の行き先を決めたのは、間接的には「ハル」だった。
彼はここのところマンションの出窓に座っては、よく月を眺めている。
随分ともののあはれに精通した風流なネコチャンだと最初は感心したものだったが、あれは月を眺めているのではなく、月よりもっと遠いところにある惑星や恒星や銀河を見つめているのかもしれない、と、最近、思うようになった。
「ハル、星、観に行こうか?」
「にゃあ」
…、と、いうわけである。
毎年11月の中旬に見頃となる「獅子座流星群」の鑑賞を、今回の旅の目的として定めた。
流星群そのものは「条件」さえ良ければ、東京でも拝めるのだが、やけに白っぽい都会の夜空では、満足のいく鑑賞は望めないだろう。
一方、東北地方は四方が自然に囲まれているエリアに恵まれ、空も広く、人工的なあかりが少ない分、天体の光を豊かに捉え、流星群を観測するには極めて理想的なロケーションなるのでは…、と、ふんだ。
とはいえ、名立たるスポットには流星群の極大のタイミングで人がわんさか押し寄せることだろう。
そして、人混みが苦手なハルの感受性を十分に配慮しながら、鑑賞スポットを決める必要もあった。
今回、目的地として選んだ ” とある山の頂 ” というのは、おそらく世間的にはノーマークであるはずの場所だった。
地図で見る限り、ぐねぐねとした荒れた山道が何十キロと続き、近くには宿も温泉もコンビニもなく、一軒家すら見当たらない、不便の極みとしかいいようのない最果ての地だった。
そんな僻地へ行くのは、余程のもの好きか、この世から自分の存在を消し去りたい人物か、はたまたセンシティブなネコチャンと行動を共にする50過ぎの独身男くらいだろう。
ひたすら北へ車を走らせること、約6時間。ぐっすり眠り込んでいたハルがひょっこり目を覚ました。
彼のことだから、腹でも減ったのだろう…。
「もう少ししたらサービスエリアだから、そこでご飯、食べようね」
「にゃあ…」
ハルは順調に腎臓の病気を克服し、すっかり元気を取り戻していた。
初めての遠出に、幾分、はしゃいでいるようにも見える。キャリーケースの中でコロコロコロ…と、上機嫌に喉も鳴らしていた。
「サービスエリアまで、あと3キロか…」
そんな無邪気なハルの姿に、27歳のまぼろしが重なって見えた。
*****
目的地(付近)に到着した。
本当は山のてっぺんまで ” 愛車 ” で登りたかったのだけれども、案の定、駐車できそうなスペースは皆無であったため、仕方なく、山頂の手前のパーキングに車をとめた。
しばらく車内で待機し、流星群が極大となる午前三時の少し前に、ここから歩いて山頂を目指すことにした。
「今年の獅子座流星群は極大時であっても1時間あたりに観測できる流星は数個程度でしょう…」
カーステレオから、そんな寂しい情報が流れてきた。
「観られたら、ラッキーだねぇ…」
なんて、ハルを相手に話していると、段々、まぶたが水銀のように重くなってきた。車の中もやたらぽかぽかしていたし、コーヒーのカフェインの効果も虚しく、知らぬ間に俺は寝落ちしていた。
*****
ピッポコ、ポッポ、ピロリロリン…
セットしていた携帯電話アラームの呑気な音色に叩き起こされ、時刻を確認すると、午前二時半を回っていた。
「やべえ、そろそろ出発しないと…」
11月の北東北は、すでに極寒だった。
愛用の黒いダウンジャケットを羽織り、無防備な首元にはマフラーをぐるぐる巻いて、両手には手袋を二重にはめたが、なおも相手は強敵だった。
保温性抜群のオレンジのブランケットでハルを包み込み、繭玉みたいになった彼をひょいと抱きかかえ、いざ、山頂を目指して歩き出す。
山登りと言っても、所要時間は10分とかからない。木組みのステップで山路は整備されていたし、手すりと思われるたるんだロープもあったが、さすがに電灯は一本もなかった。
足元や周辺を懐中電灯でぺかぺか照らすと、山路沿いに「クマ出没注意」と書かれた、朽ちた看板があった。
…、マジかよ…(どうか出ませんように、どうかこの暗闇の中でお熊様と遭遇しませんように…。どうか、どうか。どうか、どうか…)。
*****
頂上についた。
山頂の空気は下界とは違う味がした。不凍湖のように透きとおっていて、ほろ苦い。乾燥していて、とげとげしていた。
「ハル、着いたよ」
声をかけたが、彼はなかなかブランケットから出たがらなかった。
俺は背負っていたバックパックから折りたたみの椅子を取り出して、枯れた草の上に設置した。
タンブラーに入れて持ってきたイタリアンローストで凍った身体を解凍した。口から漏れた白い息が北風にちぎれ、刹那く群青に消えた。
天を仰ぐと、頭上には今まで観たこともない完璧な星空があった。
銅色のベテルギウスにシリウスの蒼、そして、プロキオンの白銀が千億の光を放ちながら、晩秋の夜空一面、きらきらとしたアステリズムを形成していた。
墨色したあの山脈の向こうには、おそらくやまねこ座が隠れているのだろう。
そして、カストルとポルックスのふたごの兄弟は今宵も変わらず睦まじい。
天界でふたたびめぐり逢えたふたりは、今頃、どんな神話の続きを語り合っているのだろうか。
*****
プルシアンブルーの海に散りばめられた無数の夜光虫の群れを見せてくれと言わんばかりに、ハルはブランケットの中からもぞもぞと顔を出した。
彼はうっとりとした悲しそうな表情を浮かべながら、神聖な宇宙を見つめていた。不思議なことに、彼の瞳は流星群の放射点へと向いている。
「あれは ” レオニード ” と言ってね、33年の周期で太陽の近くにまでやってくる ” テンペル・タットル ” という彗星を母天体とした流星群なんだよ。毎年この時期になると活動のピークを迎えるんだ。ちょうど獅子座の首元のあたりから放射されるから、獅子座流星群とも呼ばれているよ。俺が若かった頃、彗星の回帰と重なる年があってね、数時間で何千個もの流星が絶え間なく地球に降りそそぐ美しい夜空を一晩中、眺めたこともあったよ。とても幻想的な夜だったけれど、少し、怖かった。なんだかこのままもうこの世界が終わってしまうような気がして」
ハルが俺の昔話を理解したかどうかは、分からない。
分からないけれども、月みたいな真ん丸の緑色の瞳で、透きとおった11月の星空をまっすぐ見つめていた。
「ねぇ、ハル…」
無言で彼は、俺の顔をきょとんと見つめた。
「流星、もう会えないかもしれないね…」
ただひたすらに放射点の真ん中へ瞳を集中させていたけれども、星が流れるような気配はひとつもなかった。
いたづらに、時が過ぎ去って行くだけだった。
衛星のようなものは、時々、見えた。けれどもそれはやはり人工衛星でしかなかった。
延々、群青と睨めっこをした。天は透きとおっていて、露のように蒼く、氷のようにきれいだった。
憎らしいほどに。
沈んだ船の中で、俺は夢想した。この宇宙よりも遥かに遠い国へ行ってみたい、と。
滲んだ瞳で、ハルに見つめられた。そんな彼の寂しそうな表情に、俺も切なくなった。
たとえどんなに冷たい色に染まった景色がこの目に映ったとしても、どんなに哀しい音で奏でられた旋律が耳に届いたとしても、その夢は真っ暗な俺の海を照らす小さな宝石だった。
いつまでも、いつまでも、ふたりをこうこうと照らす巨大な悪魔のささやきだった。
でも、もし今夜、君と流星を観ることができたなら ―。
*****
すると、あたり一面、エメラルドの原石のような淡い鮮烈な緑色に包まれた。
その光の正体は宇宙から届いた ” 祈り ” だった。
「ハル、今の流れ星、見た?とても大きかったねぇ…」
彼は怯えたように、小さく震えながら糸のような細い声で鳴いていた。
それはあまりにも突然のできごとだった。
拍子抜けしてしまうほど、ものすごいものを見てしまったと、俺は思った。
レオニードの欠片は、狐のしっぽのような三本の銀色の筋を天に残した。
そして、氷霧のような蒼い燐光がはらはらと夜空に舞っていた。
やぶれた夢の残骸みたいに。
北風は一段と強まり、野蛮に揺れるハダススキの穂は、儚くちぎれて銀河の彼方へ飛んでいった。
身体はすっかり氷柱のようだったけれども、胸の真ん中から伝わるハルの体温はベルベットのようにやさしい。
君は、あの星に「何」を祈ったのだろうか…。
…、俺は、―。
*****
君と過ごしたこの流星の夜は、一生涯、忘れることはないだろう。
そして、涙のように流れる星たちを、空がうっすら明るくなるまで、ふたりは永遠に眺めていた。
<絶望三部作『Evermore』第1章:猫のいる風景・完>
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