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デブオタと追慕という名の歌姫 #09
第4話 それぞれに見出したもの ②
イチイは、日本では神社でよく見かける木である。
しかし、イギリスでは必ずといっていいほど墓地で見かける。
こんもりと茂った枝葉は、墓地に眠る人へ降り注ぐ陽光や雨を適度に遮ってくれるのだ。
だから、多くのイギリス人はこの針葉樹を決して死を連想した不吉なイメージではなく、自然の墓守を見るような眼差しで見ている。
雨の気配はないが雲の多い空の下、この小さな墓地にはそんなイチイの樹やトチノキがあちこちに植えられていた。
芝生も綺麗に手入れされベンチもあちこちに置かれているので、そこは一見すると墓地というよりも公園に近い趣があった。
そして、そんな墓地の中で傍に他に誰もいないことをいいことに、日本人とおぼしき一人の巨漢がだらしない格好でベンチに座り込み、先ほどからしきりにブツブツ言いながら携帯の端末らしいものをいじっている。
自称アイドル歌手の音楽プロデューサー、デブオタは何故こんなところにいるのだろうか。
「困ったな……」
彼は、タブレットPCの画面を何度もスライドしたりタップしたりしていた。
画面にはバーチャルアイドル育成ゲーム『ドリームアイドル・ライブステージ』のデータリストが表示されていた。
各アイドルの顔がサムネイル形式で並んでいる。
それは、タップすればプロフィールや持ち歌、ランキング、クリアしたイベントや受賞歴までがすぐに確認出来る上、イベントやプレイ動画も再生出来るようになっているという、凝った仕様だった。
デブオタがゲーム内で育て上げたバーチャルアイドルは既に全員が最高ランクに達している。そんなアイドル達のイベント歴を捲って、彼はしきりに何やらブツブツつぶやいていた。
「レナレナ、かえで、アーヤ、るるな、みぽりん……ううむ、ダメだ。みんな地道に歌唱力とかダンステクとかのパラメータを蓄えないとランクアップしねえ。いきなりレベルアップとか最終ステージにショートカット出来る裏技とかなかったかなぁ?」
墓地の雰囲気におよそそぐわない文明の利器をいじくりまわしながら、彼は未練気に何度も画面をスライドさせたが、しばらくして「エメルを一気にデビューさせる裏技なんてある訳ねえかー」と、諦めたように肩を落とした。
「ドリステなら経験やスキルが表示されてるしイベントも自然に発生するんだけどなぁ。現実って奴はパラメータは見えないし、イベントフラグもさっぱり立たねえときた」
彼は「参ったな、こりゃ」と、言ってため息をついた。
「イギリスが舞台で、アイドルが生身の人間、バックアップの事務所はなしでパラメータは非表示とはなんつーハード設定だよ。やっぱり勝手が違うよなぁ」
彼は眼を落とし「これでいいんだろうか……」とつぶやいた。
暗い顔に弱気な色が浮かんでいる。それはエメルにはまだ一度も見せたことのない、自信のない表情だった。
と、離れた場所に植えられていたイチイの茂みの影から「デイブ、お待たせ」と、エメルが現れた。
「お、おう」
独り言を聞かれたかとデブオタは一瞬うろたえたが、幸いエメルの耳には入っておらず、彼女は笑顔で近づいて来る。
デブオタはホッとしながら「まぁ、ここに座れよ」と、自分の横にエメルを招き寄せた。
「花屋さんにシュウメイギク(アネモネ)あって良かったな」
「うん。デイブ、花束買ってくれてありがとう」
「なあに、そんな高い花じゃなかったし。オレ様はエメルのプロデューサーなんだからお母さんへのお花代くらい出させてくれ」
目許の涙をハンカチで拭うとエメルは静かに微笑んだ。
今日は、エメルの母親の一周忌。
デブオタは練習はお休みにしてエメルを自転車に乗せ、墓参りへ連れて行ってくれたのだった。
「天国のお母さん、私の『アメイジング・グレイス』聴いてくれたかな……」
「エメルの歌だもの、お母さんが聴いてないはずないさ」
優しくそう答えると、デブオタはタブレットPCの画面にちらっと目を落として電源を切り、ケースにしまうと薄汚れたリュックサックに放り込んだ。
それはかつてアニメキャラが印刷されていたが長年酷使されているうちに色褪せ、幽霊じみたシルエットがうっすら残った不気味なリュックサックになっていた。
「歌手を目指して今頑張ってるって、お母さんに話してきたわ。デイブのことも」
「オレ様のことなんか話さなくたっていいのに」
「ううん、どうしても話したかったの。お母さんに一番伝えたかったの」
「そ、そうか」
デブオタは、鼻をこすって照れくさそうな顔をした。
「ここ、風が気持ちいいな」
「うん」
そのまましばらくの間、二人は黙り込んだ。
近づく冬を感じるひんやりした風が頬を撫で、髪を靡かせて吹き過ぎてゆく。
エメルはふと、思った。
(もう半年以上になるんだ)
公園のトイレの傍で彼と出会ってから。
プロの歌手にしてみせると彼が宣言してから今まで、彼女の身の上はまだ何も変わっていない。だけど、確かに変わったものがある。
毎日のロードワークは、ヘタばらずに四キロを完走出来るようになっていた。
クラシックバレエのレッスンもよろけたり躓いたりすることはなくなった。低い塀なら飛び越えられそうなほどの跳躍力を身につけ、ターンだって四回程度なら優美に回転出来るくらいになった。それはシューズを四足履きつぶし、地べたに置いたゴムマットが擦り切れてとうとう穴がうっすらと開くまで練習した成果だった。
発声も上達した。少し離れた場所にあったオークの高い木の梢から鳥が驚いて飛び立つほど明朗でよく響く声を出せるほどになった。息も継がずに長いフレーズを歌えるようにもなった。
オーディションは……もうどれくらい受けただろう。
エメルはもう正確な回数を思い出せなかった。
「デイブ、明日のオーディション頑張るからね。お母さんにもそう言ってきたの」
「おう。お母さん、きっと見守ってくれてるさ。頑張れよ。でもエメル、リラックスな、リラックス」
「うん、大丈夫よ」
エメルが笑いかけると、デブオタはちょっと眼を見開いて驚いた表情になった。
「エメル。お前、綺麗になったなぁ」
「き、綺麗?」
今まで親以外に自分の容姿を褒められたことのないエメルは、裏返った声で「突然何言い出すの!」と叫んだが、デブオタは大真面目に頷いた。
「いや、本当だってば。最初会ったときは躓いたらそのままゴロゴロ転がりそうなぽっちゃり体型だったのに、モデルみたいに痩せたし」
「そ、そう?」
実際にエメルの容姿は、以前とはずいぶん変わっていた。
「おお。それに笑うとかわいくなった。前はオドオドしてばっかりだったのに」
「デ、デイブったら! 私、そんなに変わってないよ」
エメルは恥ずかしそうに笑った。怯えることがなくなった彼女は以前よりよく笑うようにもなっていた。
痩せたこともあったが、デブオタのせいで明るく朗らかになったエメルの雰囲気は、見違えるように変わった。控えめで慎ましい佇まいから十六歳の少女だけが持ち得る、あのみずみずしい魅力が見えそうなくらい滲み出ていた。
エメルは顔を真っ赤にしたが、デブオタはそんなことなど気にも留めず、コブシを握り締めて嬉しそうに自分に言い聞かせた。
「うん、間違ってない。エメルの嬉しそうな顔を見ろ。オレは……オレ様は間違ってなんかいない」
「デイブ、そろそろ行きましょう」
エメルがソワソワして照れ隠しのように言うと、デブオタは頷いて「じゃ、帰るか」とベンチから立ち上がった。
彼が墓地の入り口に停めてあった自転車のサドルに跨ると、エメルはいつものように後ろに座って彼の腰に手を添えた。
彼の漕ぐこの自転車に乗って、オーディション会場に何度連れて行かれたことだろう。
プロの歌手なんて、どこかまだ夢物語のように思える。
だけど、エメルの中には、もしかしたらいつか自分に光が当たる日が来るかも知れない……そんな期待がいつしか芽生えていた。
その「もしかしたら」は、明日のオーディションかも知れない。
そうなったら天国のお母さんはどんなに喜んでくれるだろう。
何よりいま、自分の前で自転車を漕いでいるデイブはどんな顔をしてくれるだろう……
さっきのデブオタの優しい顔が浮かんでくる。
エメルの顔は我知らず綻び、胸は高鳴った。
だけど……
「合格者を発表します。一四番、二六番、四一番です。番号を呼ばれた方はそのまま残って下さい。呼ばれなかった方はそのままお帰りいただいて結構です。お疲れ様でした」
「もしかしたら」と思った、その日。
オーディション用に用意されたスタジオに並んだ少女達は、番号を呼ばれ目を輝かせた三人を除いて皆、一様に肩を落とし、三々五々と帰り支度を始めた。
そんな少女達の中にエメルもいた。
(また、駄目だった)
あの合格した少女達が持っていて、自分に足りなかったものは何なのだろう。
毎日あんなに練習してるのに、まだ何かが足りないのだ。足りなかったものはたくさんあるのだろうか。それともあと僅かに足りないだけなのだろうか。
ロッカールームで着替えながらエメルが思わずため息をつくと、偶然隣の少女が同時にため息をつき、二人は思わず目を合わせた。
「お疲れさま」
「うん、お疲れさま」
ふふっと笑ったエメルに少女も苦笑して挨拶した。
オーディションを受け始めてから半年以上にもなって、エメルは同じオーディションを受けていたライバルの一人と初めて言葉を交わしたのだった。
「残念だったわね」
「まぁね。私はまた次のチャンスを狙うわ」
「私もそのつもりよ。お互い、頑張りましょうね」
エメルが微笑んでエールを贈ると、少女の瞳に好意めいた色が浮かんだ。
「あなた、綺麗なブルネットの髪をしているのね。名前は何て言うの? 私はマリーベルト・スアリス」
「ありがとう。私、エメル・カバシ。ハーフで半分日本人なの」
「ワオ! エメルの雰囲気が何となくエキセントリックだったのは、半分サムライだったからなのね」
突飛なリアクションにエメルは一瞬戸惑ったが「デイブだったらどう言い返すだろう」と思った時、切り返す言葉をすぐに思いついた。
「ああ、どうしていつもこう誤解されるのかしら。私が本当にサムライなら、オーディションに失格した時、切腹してるはずなのに……」
わざとらしく大仰にため息をついたエメルの言葉に、周囲にいた二、三人の少女達もマリーベルトと一緒に噴き出してしまった。
「これは失礼。イギリスを代表して偏見を謝罪するわ」
「マリーベルトったら、エメルにイギリス流のジョークと理解されなかったらどうするつもりだったの?」
「日本との時差が百年ぐらいあるなんて思われるんじゃない?」
「やあねえ。私、コメディアンじゃなくて歌手のオーディションに来たのに」
「ねえ、良かったらこれから一緒にお茶していかない?」
「あ、いいわね」
「エメルも一緒にどう?」
エメルは嬉しそうに頷いた。
「ええ、外で待ってるデイブも一緒で良かったら」
「デイブ?」
「うん、私のプロデューサーよ。正真正銘の日本人だけど刀も手裏剣も使ったところを見たことがないの。だからたぶん彼もサムライではないと思うわ」
「それは残念ね」
「エメル、それはまだ分からないわ。あなたに正体を隠しているだけかも知れないわよ」
「まさか!」
笑いさざめきながらオーディション会場のビルから外に出ると、通りの向こう側にあるオープンカフェでデブオタがブツブツ言いながら携帯の端末を弄っている姿がエメルの眼に飛び込んできた。
「デイブ!」
顔を上げたデブオタへエメルは走り寄ると「オーディション終わったわ」と報告した。
「おお、お疲れさま」
「結果はその……駄目だったの、ゴメンなさい」
「なあに、気にすんな。それより後ろの女の子達はなんだ?」
「さっき友達になったの。これからお茶をしましょうって。ねえ、デイブも一緒に来て」
デブオタは目を丸くして、エメルから少し離れた後ろに固まって自分に視線を注ぐ少女達をしばらく見ていたが、静かに笑って首を横に振った。
「オレ様は行かないよ」
「えっ、どうして?」
「オレ様なんかいない方がいいから。さあ、今日はもう終わりだ。あの娘達と一緒に遊んでおいで」
そう言うとエメルの身体をぐるっと回れ右させて押し出した。
エメルが振り向くと、デブオタは「また明日な」と手を振ってさっさと歩き出していた。
その笑顔はいつもの豪快で自信たっぷりの笑顔だった。
だけど。
「デイブ……」
彼の顔に寂しげなものが見えたような気がした。
それは、ほんの僅か垣間見えただけだった。もしかしたら気のせいだったかも知れない。
しかし、エメルはその場から動き出すことが出来なかった。
何故、少女達と一緒にいることを彼は拒絶したのだろう。
エメルには分からなかった。
胸が痛い。鋭い痛みではなく、鈍い痛み。
何だろう、彼とこのまま別れてはいけない気がする。明日にはまた会えるのに。
だけど、このまま別れたら大切な何かをきっと失ってしまうと心の声が告げていた。
――何故胸が痛むんだろう。何故このまま別れたくないんだろう……
「エメル、どうしたの? 行きましょう」
立ち竦んだエメルに、近寄った少女達が声をかけた。
振り向いたエメルはつい今しがたのデブオタの不可思議な言動を話そうとした。
だが、話す前にマリーベルト達の笑いと嘲るような言葉が全てを解き明かした。
「あれ、本当にエメルのプロデューサー? あんな人、初めて見たわ!」
「体重何キロなのかしら。私、イギリス大陸が沈むんじゃないかと思ったわ」
「どうやら、私達と一緒になるのを断ったみたいね。賢明な人だわ」
「確かにサムライじゃなさそうね。お相撲さんかと思ったわ」
哄笑する少女達は、さっきとは別人のようだった。エメルの眼にはまるで初めて見る人達のように見えた。
胸の中にあるものを感じた。彼女達と相容ることの出来ない、大切な何か。
そして……
「酷い顔ね、ちょっと怖かったわ。あんまりお近づきになりたくないタイプの人ね」
マリーベルトがどこか蔑んだように笑った瞬間、エメルはデブオタの言葉を理解したのだった。
――オレ様なんか、いない方がいいからさ
エメルはデブオタの去っていった方角を見た。
「エメル、どうしたの? 行きましょうよ。美味しいお茶のお店があっちにあるのよ」
袖を引こうとしたマリーベルトの手をエメルは優しく振り払った。
「ごめんね。悪いけど私やっぱり行かない。みんなで楽しんできて」
「えっ、どうして?」
デブオタを笑っていた少女達はみな一様にキョトンとした顔になった。
エメルは静かに言った。
「あの人はお相撲さんじゃないの。私の大切な人なの」
「エメル?」
「私、人の痛みや悲しみを思いやってあげられる歌手になってくれって、彼に言われたの」
「エメル、何を言ってるの?」
「私も、そんな歌手になりたいの」
「……」
「だから、みんなとは多分友達になれないわ。ごめんね」
そう言って微笑むとエメルは踵を返して走り出した。
デブオタの去っていった方角へ。
彼女が望んだ側へ。
「何よあれ!」
「まさか、あんな気味の悪い男の肩なんか持つの?」
「友達になれないなんて何様? ハッ、こっちからお断りだわ」
「もういいわ。あんな娘、放って行きましょう」
訣別された少女達は一斉に口汚く反駁したが、エメルはもう振り返りもしなかった。
「デイブ! デイブ、待って!」
通りの向こうに遠く小さくなってゆく人影に向かって大声で呼びかけた。発声練習で鍛えたよく響く声に、周囲の人々が驚いたようにエメルへ視線を向ける。
「私、デイブと一緒に行くわ!」
彼女の声は届いたようだった。去りかけた人影が立ち止まる。
訝しげに振り向いた彼の許へ、エメルは頬を紅潮させて一散に走り寄っていった……
次回 第4話「それぞれに見出したもの ③」