𠮷田恵輔監督回振り返り再増補改訂版
24.12.08_界隈塾_第6回_
ゲスト吉田恵輔監督:自己顕示する承認厨という「クズ」が回す、「クソ社会」の地獄
振り返り(24.12.10_荒野塾・資料) 批評的作品が消えて消費的作品が増えた時代に批評的作品を実作するには?
【実作者が批評家だった昭和には批評的な文芸・映画が溢れた】
吉本隆明と江藤淳が語るように*、実作者が批評家を兼ねるのが、昭和の作法。映画なら、 大島渚、吉田喜重、松本俊夫、足立正生、原正孝など。文学なら、吉本(詩人)や谷川 雁(詩人)。吉本によれば、小林秀雄とその流れを汲む江藤淳も、文芸批評の文体が文学と して体験されるので、実作者・兼・批評家です。
*吉本隆明・江藤淳『純文学と非文学の倫理』中央公論社、2011年
実作者である批評家が、社会学者や政治学者よりも、社会や政治について語れたのも、昭 和の作法。上にあげた全員がそうです。吉本の言い方では、社会の流れに「適応する」より も「抵抗する」こと*を、保守と革新の別を問わず、全員が企図していたからです。ところが 80年代の村上龍・村上春樹を起点に、社会の流れに適応する「消費化**」が拡がります。
*システム理論では、適応(学習的適応)と抵抗(価値的貫徹)とは、環境に対する択一的な構え。
**「消費consumption」は「欲求=欠落want」を埋め合わせる営みだから「適応」を含意する。
文芸の消費化であり、映画の消費化です。これら実作の消費化は、実作者が批評家を兼ね なくなったことが指標になります。実際に90年代半ばまでに、文芸批評誌・映画批評誌・演 劇批評誌・音楽批評誌がほぼ壊滅しました。理由は明白です。実作者が、「全体性を見渡し た社会批評**としての」実作を、企図しなくなったからです。
*批評criticismとは、危機(crisis)を感じさせること=淵に立たせること(close to the edge)。
**批評は社会批評と実存批評がある。「実存批評を介した」社会批評だけが論説ならぬ芸術になる。
社会批評としての実作がなくなり、実作を社会批評として読む・見る人もいなくなりまし た。文芸や映画や芝居や音楽が、社会批評として体験されなければ、論理的に、これら実 作に対する批評も需要がなくなります。結果、実作者・批評家・観客のトリアーデ*が無くな ってしまいます。それが「いま」ということです。
*トリアーデとは、三要素が前提を供給し合って成り立つ全体。トリニティ(三位一体)ではない。
でも社会批評的な作品は政治的なプロパガンダを意味しません。芸術作品と言えるもの は、当たり前に見える「実存*」のありそうもなさの反省を通じ、ありそうもない実存を当た り前だと錯覚させる「社会」、そしてその「実存」が回している「社会」の、「鉄の檻」ぶり(ウェ ーバー)に気付かせます。気付かぬ者を「クズ**」と呼ぶと、クズが回すのが「クソ社会***」。
*実存existenceとは、数多の実在realの中で特定の実在に閉ざされた者の、自明ではない構え
**ウォーパーの「鉄の檻を回す没人格(言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン)」が汎化したもの。
***没人格が支えるシステム世界が汎化し、人格に戻れる生活世界を消去したのが、「クソ社会」。
【社会批評稀有な映画を撮る作家群〜吉田恵輔・黒沢清・深田晃司】
吉田恵輔監督作品を僕が繰り返し批評するのは、吉田監督の実作が、「いま」としては稀有 な「全体性を見渡す社会批評」だからです。黒沢清監督作品や深田晃司監督作品への批評を 反復して来たのも、同じです。吉田監督の(片想いの・暴力の・収奪の)玉突きという基本モ チーフが、「社会批評としての実作」を可能にします。
黒沢清は徴候に敏感な者が社会内に留まれなくなるという「統合失調親和者(中井久夫)モチ ーフ」。建物の配置、外壁上の窓の配置、間取り、変哲なき言葉の配置が不穏な徴候です。深 田晃司は社会の外に弾かれた存在から社会がどう見えるかという「外の視座モチーフ」。「徴 候」の表現がない代わりに、「内の関係性」の表現が極めて秀逸です。
吉田的「玉突きモチーフ」、黒沢的「S親和者モチーフ」、深田的「外の視座モチーフ」に共通 するのは、消費化された過去30年の映画の「あるある系」とは逆に、1日常に閉ざされた者 に不快な気付きを体験させて日常の視座に留まれなくさせることと、2ブレヒト(を通じて ベンヤミン)が推奨する「不快な驚きを体験させたままの中断」というエンディングです。
意外にも「片想いの玉突き」というラブコメ作品から出発した吉田監督は、(本人が当日いわ く「ラブコメのネタが尽きたので」)やがて「否定性の玉突き」にシフトします。お渡しした 「愛しのアイリーン」評で述べた通り、この玉突きモチーフが、後期ハイデガーが近代を「駆 り立て連鎖」として記述した「総駆り立て論」にピッタリ対応します。
*宮台真司 愛ではなく愛のようなものこそが本当の愛であるという逆説
【仕方なさを記述するハイデガー「駆り立て」と吉本「関係の絶対性」】
いわく、昔の木こりは自らが属する小共同体の便益のために木を切った。複雑な分業編成 に組み込まれた「いま」の木こりは、製材業者に駆り立てられ、製材業者はパルプ業者に駆 り立てられ、パルプ業者は出版業者に駆り立てられ、出版業者は読者に駆り立てられ、読 者は読書という気晴らしに駆り立てられ⋯。
これは、面識圏に閉じた生活世界からの便益調達が、匿名圏(没人格圏)に開かれたシステ ム世界からの便益調達へと置換されたから。駆り立て連鎖は見渡せず、見渡せても起点が ない。不景気循環を含めた景気循環に揉まれ、引く手数多の商売繁盛が、一瞬後に閑古鳥 が鳴いて極貧に喘ぐ。近代はそんな生態系*だとハイデガーは見る。
*生態系とは「前提付けるものもまた前提付けられている」という非線形的連鎖の全体。
生活者(一般人)は例外なく、原生自然を間接化する複雑な分業編成の生態系(関係性)に囲 繞され、見渡せない駆り立て連鎖の中で生きている。吉本隆明は「関係の絶対性」と呼びま す。生活者はそこで体験する痛みを「なぜなのか」と問い、他責化・他罰化または自責化・自 罰化に勤しむ。吉本は「大衆の原像*」と呼びます。
*「原像」という呼称は「それは仕方ない」という含意。上から目線で批判できないことを言う。
【「大衆一般」は仕方なくても「あなた」は仕方ないでは済まない】
当日話した、古谷実原作「ヒメアノ〜ル」の吉田監督による重要な改変(2016年)は、今話し たような生活者の「近接性(等身大)の体験」への閉ざされを戒め、「遠隔性(非等身大)の思 考」へと観客を誘(いざな)う。2016年以降の全作品が、「遠隔性の思考(反省)」を欠いた「近 接性の体験(脊髄反射)」を防遏する社会批評に飛躍します。
*宮台の80年代の計量では、孤独な者の「近接性の不全感」の常態化は、「遠隔性の思考」を妨げる。
吉本隆明がこれら吉田作品を見たら賞賛するでしょう。数多の痛みを他責化・他罰化または 自責化・自罰化する登場者達は「それは仕方ない」と描かれる一方、観客は「この映画を見た 以上、物事を今までと同じ様な脊髄反射では体験できなくなり、駆り立て連鎖の生態系に 反省的に思いを致すことになる」からです。それに匹敵する映画は今の日本にありません。
「脊髄反射reflex」と「反省(再帰)reflection」は宮台システム論の二項図式で、「素朴な反応」 である脊髄反射に対し、「自己の反応に対する反応(の累加)」を反省と呼びます。進化心理学 の用法*。行為にも体験にも使えます。自分で選んだとは帰属処理できない反応が体験。自 分が選んだと帰属できる反応が行為。その全てが体験を前提とすることは前回話しました。
*心理学者ジュリアン・ジェインズが1974年に意識を「反応の再帰性」として定義したのが端緒。
「ヒメアノ〜ル」以降の吉田作品は「ソレを体験した以上、今までのように毎日を生きられな くなる」。その意味で、レ・クリエーション(回復)の「娯楽」ではなく、見た人を不可逆に傷 付ける「芸術」です*。傷付いた観客は、この社会が「思っていたものと違う」ことを体験。そ んな社会でボジション取りのために自己顕示をする承認厨の頓馬さに気付くのです**。
*先の注に従えば、「娯楽」は欠落から回復させる消費。「芸術」は回復を妨げて覚醒させる批評。
**娯楽は人を回復させて社会に差し戻す「週末のサウナ」。芸術はクソ社会への帰還を嘲笑する。