伊藤雄馬氏の「自他未分による脱中心化」と、「浮遊するシニフィアン」の関係 〜宮台「思想塾塾長・花澤創一郎君の修論と思想塾論文メモについての考察」を巡る議論〜

24.12.15 宮台真司

界隈塾参加者グループLINEに投稿
伊藤雄馬氏の「自他未分による脱中心化」と、「浮遊するシニフィアン」の関係 〜宮台「思想塾塾長・花澤創一郎君の修論と思想塾論文メモについての考察」を巡る議論〜

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伊藤雄馬氏の発言: 拝読しました。ものすごい濃度でまとめてくださっていて、その圧縮具合を部分的に察することしかできず、「未規定のだいぶん手前でもう未規定」みたいな感覚しか持てないぼくですが、ぼくの言語観を説明するのに必須だと感じました。いつもありがとうございます。
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難しく聞こえますが、単純に言えば、ゼロ・シニフィアンは、①通常のシニフィアン群と同列の横並びになることで機能しますが、②その機能が通常のシニフィアン群の全ての値(シニフィエ=意味)を決めてしまう、という二重性があるところがポイントです。

この二重性は、①全体性ゆえに人々には認識できない(=偶像化できない)「主なる神」が、②人々と話したくて(ベネディクト16世)、人々と同列に横並びになるイエスを、聖霊=エーテルという媒介で、「主なる神」とつながったままの状態で、地上に送ったという話に似ます。

「主なる神」と人々という二項図式は、柄谷の分数(分子が[意味/無意味]、分母が[非意味]) と同じで「主なる神(分母)」が人々(分子)に力を及ぼす過程が不明ですが、主/イエス/人々 という三項図式は、イエスが「全体でありつつ部分である」ことで、人々に力を及ぼします 。

一言で、ゼロ・シニフィアンとは「部分でありつつ全体であるような未規定な特異点」。ルーマンは「サイファ(暗号)」と呼びます。目の前にある「文」を認識できるのに「意味」を解読できない(=未規定だ)からです。これは、神を「未規定な全体」と等置する一神教の特性です。

後続の雄馬氏の発言は、「部分でありつつ全体」という「存在の両義性」のイメージに触発され、「部分を見るようで全体を見る」という「触知の両義性」をイメージしたのだと思いま す。「触知の両義性」では、視界に入れるや全ての部分から全体を触知する構えになります。

竹内好の「一木一草の天皇」の如く、そこでの全体が、文字通りの全体(=唯一神的全体)を指す場合もあれば、武術や狩りにおける如く、自他未分のような局所的全体を指す場合もあ ります。但し後者も、局所的全体の同心円的(フラクタル的)拡大で全域的全体に到ります。

与えられた部分から局所的全体を触知し、その局所的全体という部分からヨリ大きな局所的全体を触知し⋯というフラクタル性、つまり「自己再帰する拡大」という曼荼羅性こそ先 住民に普遍的な人類学的「森の思考」です。その意味で言語人類学者・雄馬氏ならではです。

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伊藤雄馬氏の発言: 取り止めないですが、少しだけ感想のようなものを書かせてください。

ぼくの関心として、言語使用における「質」を捉えたい、というのがあります。それは例えば「ありがとう」でも、お世辞で言うのと、心から言うのでは違う、みたいなことを含みます。

ぼくはその質を武術の経験から「一致」だととりあえず説明することがあります。一致効果 (congruency effect)というものがあります。右と言いながら右に動くと、強く速い。武術はこれを使います。

宮本武蔵は『五輪書』で目付について書いています。「目玉を動かさず相手の両脇を観ろ」と矛盾しているようなことをいいます。これは、肉眼(見の目)と、心の目(観の目)をわけており、心の目で相手を右からも左からも同時に観ることを指していると僕は解釈しています。観の目は肉体に縛られず、かつ複数の起点を同時に現すことができるから可能な芸当です。

一致効果は、観の目に(も)一致します。つまり、「右」と言うとき、観の目の位置次第で、一致効果が現れる範囲が変わり、また広がります。例えば、自身の肉眼と、相対する相手からの視線を観の目とすれば、「右」の発話と一致するのは、自分から見て左右の両方になります(分かりづらくてすみません)。

つまり「右」という言葉の一致効果の範囲は観の目などの話者の態度によって変化し、拡がり、究極的には全方向が「右」と一致します(ちょっとコツがありますが)。すると、「右」という言葉が意味をもたなくなり、「右」はどの語とも置き換え可能になります。「骨」とか「アッパッパー」とか。
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中3の時、中国武術に近接した沖縄空手・松濤館の師範が麻布空手部に招かれました。当時 60歳の師範は、屈強な高3の黒帯部員が十人束になっても指一本触れられず、竹刀や木刀 を持たせてもらえてもカスることすらできない。それはなぜなのか説明してくれました。

なぜか僕が指名され、1mも置かずに相対した状態で、どこでも自由に攻撃しろと言われ ました。ところが突きも蹴りも5cmも繰り出せず「やさしく封印」される。なぜこうなるか分かるかな? 君の心身は僕の心身だ。だから君が殴ろうと思った瞬間、殴る前に分かる。

武術が上達するには、自分の心身を相手の心身を含むまで拡張可能になる必要がある。君の心身は僕の心身を含んでいない。僕の心身は君の心身を含んでいる。その状態では君の攻撃は全てムダなんだ。自他未分の心身拡張には修行の年月が要る(宮台ほか落胆)。

しょげるな。今の未熟な君でも僕に触れる方法がある。宮台君だったね。僕のミゾオチの所に味噌汁か入った椀があると想像しなさい。さぁ、いつものように椀を取りなさい。ほら、ミゾオチに君の手が当たった。手加減はしていない。攻撃の気配がなかったからだ。

気配は偽装できる。味噌汁をいただくいつもの君に「なりきる」ことでね。そうやって私の秘孔に触った瞬間に深くめり込ませろ(そこにも技量が要るが)。先程の、自分の心身を相 手の心身にまで拡張するのも相手への「なりきり」だ。自分と敵という図式は邪魔なんだよ。

以上が師範の指導。師範は東京理科大出身のインテリで、「自他未分」や「脱中心化」などの 語彙を使われました。見の目ならぬ観の目とは、自他未分により脱中心化した視座です。 その視座(観の目)にとっての右は、見の目にとって全方位であり得ると雄馬氏が話された。

「一致効果」はよく知られますが、「自他未分による脱中心化」を経た「右!」の気合いは、ここからの右のみならず、あらゆる態勢からの右を含んで変幻自在なダイナミズムを生み出し ます。それが「部分でありつつ(局所的)全体」という「森の思考」が武術に役立つ所以です。

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伊藤雄馬氏の発言: この全方位と一致する「右」が浮遊するシニフィアンと呼べるのか分かりませんが、どの語も潜在 的に一致範囲は未規定になりえます。どの語も未規定として扱うことが、最も質の高い言語使用だ というのが、暫定的な説明です。

このような僕の雑感をこれまでの先人の議論の中にどう位置付けていいか分かっていませんでした が、宮台先生と花澤さん、また思想塾の議論を共有していただき、道筋が見えてきた気がします。
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ゼロ・シニフィアンは、部分でありつつ未規定な全体であることで、未規定に動き回る「浮遊するシニフィアン」です。フランス哲学・人類学の流れでは、それは単一の特異点であっ て、ゼロでないシニフィアン群の価値を(その都度)決めるというニュアンスになります。

吉本隆明の「関係の絶対性」とはその都度動く不可視の「関係の全体性」。それを単一のゼロ・ シニフィアンに比定すれば、ゼロ・シニフィアンの浮動・揺動で、ゼロでないシニフィアン たちの値も玉突き的に動きます。ゼロでないシニフィアンたちもその意味で揺れています。

でも僕らはゼロでないシニフィアンたちの不動性を信じ、それに縛られた「言葉の自動機 械」になりがちです。ゼロでないシニフィアンたちの不動性への信奉は、複雑な分業編成で 成り立つ社会・による人々の操縦ツールです。雄馬氏の話はそれへの抵抗戦略だと言えます。

中国の格言「上に政策あれば、下に対策あり」を思い出します。自他未分による脱中心化は、それ自体は「浮遊するシニフィアン」でなく、規定された技術として教授・修行できますが、 身体性を媒介にして、ゼロでないシニフィアンたちの不動性への信奉を挫くことができます。

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