𠮷田恵輔監督回を振り返る

2024年12月10日 宮台真司

吉本隆明と江藤淳が語るように、実作者が批評家を兼ねるのが、昭和の作法。映画なら、大島渚、吉田喜重、松本俊夫、足立正生、原正孝など。文学なら、吉本(詩人)や谷川雁(詩人)。吉本によれば、小林秀雄とその流れを汲む江藤淳も、文芸批評の文体が文学として体験されるので、実作者・兼・批評家です。

実作者である批評家が、社会学者や政治学者よりも、社会や政治について語れたのも、昭和の作法。上にあげた全員がそうです。吉本の言い方では、社会の流れに適応するよりも抗うことを、全員が企図していたからです。それが80年代の村上龍・村上春樹を起点に、社会の流れに適応する「消費化」が拡がります。

文芸の消費化であり、映画の消費化です。実作の消費化は、実作者が批評家を兼ねなくなったことが、指標になります。実際に90年代半ばまでに、文芸批評誌・映画批評誌・演劇批評誌・音楽批評誌がほぼ壊滅します。理由は明白です。実作者が「全体性を見渡した社会批評として」実作を企図しなくなったからです。

社会批評としての実作がなくなり、実作を社会批評として読む・見る人もいなくなりました。文芸や映画や芝居や音楽が、社会批評として体験されなければ、論理的に、これら実作に対する批評も需要がなくなります。結果、実作者・批評家・観客のトリアーデが無くなってしまいます。それが「いま」ということです。
 *トリアーデとは3つの要素の組み込み合いのこと。

吉田恵輔監督作品を僕が繰り返し批評するのは、吉田監督の実作が、「いま」としては稀有な「全体性を見渡す社会批評」だからです。黒沢清監督作品や深田晃司監督作品への批評を反復して来たのも、同じ。吉田監督の(片想いの・暴力の・収奪の)玉突きという基本モチーフが「社会批評としての実作」を可能にします。

片想いの玉突きというラブコメモチーフから出発した吉田監督は(「当人が当日いわく「ラブコメのネタが尽きたので」)やがて否定性の玉突きにシフトします。お渡しした「愛しのアイリーン」評で述べた通り、この玉突きモチーフが、後期ハイデガーが近代を「駆り立て連鎖」として記述したことに、ピタリ対応します。

いわく、昔の木こりは自らが属する小共同体の便益のために木を切った。複雑な分業編成に組み込まれた「いま」の木こりは、製材業者に駆り立てられ、製材業者はパルプ業者に駆り立てられ、パルプ業者は出版業者に駆り立てられ、出版業者は読者に駆り立てられ、読者は読書という気晴らしに駆り立てられ⋯。

これは、面識圏に閉じた生活世界からの便益調達が、匿名圏(没人格圏)に開かれたシステム世界からの便益調達へと置換されたから。駆り立て連鎖は見渡せず、見渡せても起点がない。不景気循環を含めた景気循環に揉まれ、引く手数多の商売繁盛が、一瞬後に閑古鳥が鳴いて極貧に喘ぐ。近代はそんな生態系。
 *生態系とは「前提付けるものもまた前提付けられている」という連鎖全体。

生活者(一般人)は例外なく、原生自然を間接化する複雑な分業編成の生態系(関係性)に囲繞され、見渡せぬ駆り立て連鎖の中で行動している。吉本隆明は「関係の絶対性」と呼びます。生活者はそこで体験する痛みを「なぜなのか」と問い、他責化・他罰化または自責化・自罰化に勤しむ。吉本は「大衆の原像」と呼びます。
 *「原像」の呼称は「それは仕方ない」という含意。上から目線で批判しない。

当日話した、古谷実原作「ヒメアノ〜ル」の𠮷田監督による重要な改変(2016年)は、今話したような生活者の「近接性(等身大)の体験」を戒め、「遠隔性(非等身大)の思考」へと観客を誘(いざな)います。2016年以降の全作品が、「遠隔性の思考(反省)」を欠いた「近接性の体験(脊髄反射)」を防遏する社会批評に飛躍する。

以降の吉田作品を、吉本隆明が見たら全肯定する筈。数多の痛みを他責化・他罰化または自責化・自罰化する登場者達は「それは仕方ない」と描かれる一方、観客は「この映画を見た以上、物事を今までと同じ様な脊髄反射では体験できなくなり、駆り立て連鎖の生態系に思いを致すことになる」からです。素晴らしい。

「ヒメアノ〜ル」以降の吉田作品は「ソレを体験した以上、今までのように毎日を生きられなくなる」。その意味で、レ・クリエーションの「娯楽」ではなく、見た人を傷付ける「芸術」です。傷付いた観客は、この社会が「思っていたものと違う」ことを体験、この社会でボジション取りする承認厨の頓馬さに気付きます。

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