心の深い繋がりを知る、視覚のない暗闇
本日は、重度の視覚障害の世界である真っ暗な闇を体験できるという「ダイアログインザダーク」に行ってきました。
「ダイアログインザダーク」はダイアログダイバーシティミュージアム「対話の森」で行われている企画の一つです。
「対話の森」は、世代。ハンディキャップ。文化。宗教。民族。世の中を分断しているたくさんのものを、出会いと対話によってつなぐ、ダイバシティを体感するミュージアムです。
その中で行われている「ダイアログインザダーク」は名前のように、完全な暗闇で行動する展示。初めて出会った人と、年齢を忘れ、顔も、身長も忘れて暗闇の中過ごします。
今回はその中でも、秋にちなみ「運動会」を行なってきました。
運動会なんていつぶりでしょうか。
普段の孤独な運動と違って、運動会となるとチームで協力しながら運動できるのでとても楽しかった。(大人になっての運動の方が楽しい)
持つものは白杖のみ。メガネはどうせ見えないので外してくださいとのこと。確かに、視力は関係ないからメガネをすることはないんですね。発見。
中に入り、最後の光を消すと真っ暗闇。完全な闇になると、脳が補正をかけようと努力するのか、幻覚のようなモヤっとしたものが見えるような気がしました。盲目の人も似たような景色なんでしょうか。生まれつきだと補正する像のイメージがなかったりするんでしょうか。聞いてみたいです。
中では、やたらとしゃべりました。暗闇では声を聞くと安心するんです。
全員が見えないことがわかっているから、話して嫌がられることはないなと思い、思い切って話すことができたように思います。また、相手の表情がどう足掻いても見えることはないので、表情を変に気にすることもないことが話しやすさに繋がったように思います。
特に、8人で参加するものなのですが、その内の最年少であったにも関わらずほとんどタメ口で話してしました。視覚によるパーソナルスペースが排除され、相手の年齢が不詳になり、初対面だからこそ、0の関係から構築する。そうしたときに、私の自然なコミュニケーションは、敬語を使用しないことでした。
敬語の使用が視覚によるものだと言うは、なぜなのでしょうか。感覚的には、敬語でなければいけない方と一緒に来たとしても敬語を使用しなくなるような感覚がありました。
私の見解としては、状況を素早く正確に伝えることに敬語が適していないことによるものだと思いました。安全を確保することが最優先になるので、自然と敬語は排除されたのだと思います。敬語がつくと必要以上の情報が入り、時間がかかるだけでなく聞き取りにくくもなってしまうため、情報伝達には向いていなさそうです。
社内の仕事のメールなんかは敬語じゃなくなってもいいように思いますね。
生産性の方が優先のように思うので。企業間のやり取りに関しては信頼などに関わるので必要だと思いますが。
日本人としては、敬語を含め言葉を繊細に扱ってきたことで表現することのできる心の機微は広くなっていると思うので、なくなって欲しいとは思いませんが。
デザイン的な観点では、紙パックの上下は暗闇の中でもわかりやすかったです。三角の突起によって案外簡単にわかりました。
ストローを取り出すところまでは良かったのですが、刺す場所は分かりにくかったですね。少し窪みはあるのですが、浅くて集中しないとわからない。
もう少し、わかりやすくなるとユニバーサルデザインになるなと感じました。窪みの周りに少し凸があるとか。そんかことかな?
今後のデザインでは、触っただけで上下などが理解できる造形を加工の過程などに自然に組み込めるようになりたいと思いました。
この展示で、一番自分のためになったことは、
心から人と繋がることを理解することでした。顔を見ないだけで、誰とでも仲良くなれる。私はそこに人の本質を見ることの意味を捉えたように思いました。これまでのことを振り返ると、何かと人の見た目、自分がどう見られているのかを気にしていました。それを気にすることが嫌で、毎日同じ服に揃えてしまったりもしました。
性別、年齢、服、顔、さまざまなメガネを通して人を見ていることに気がつくことができました。
そういったバイアスの存在は理解していたものの、実際に体験することでしかそのメガネを外した世界を見ることはできませんでした。
一度この感覚があれば、思い出すことができるので、
まだの方はぜひ行ってみてほしいと思います。