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# ”先生”という言葉の影に隠れた”指導教員”の本質
博士課程に入るまで、先生は”敵”だと思っていた。
自分は先生の主張から身を守るためだけに研究を続けている、先生の言葉は全て正しくて、先生の意見から自分を守ることができれば自分は卒業できる、そんなことを思っていた。
だけど、そんな考えは1から10まで間違っていた。
指導教員はあの人自身で、シンプルに学術的な疑問を解消したかった。そのために質問していた、だけに過ぎなかった。彼なりに疑問に感じたことを言葉に発しているだけ。彼の言っていることが正しい確率が高いけど、それも絶対ではない。
これまでの教育課程でどうしても、”先生からの質問が怖い”、”間違えることは間違いである”といった固定観念に培われて凝り固まってしまった概念となってしまったが、年齢が多少上なだけで彼らは彼らなりに知らないことを知りたいと思っていた、ただそれだけのことだった。
小学生が先生に質問する、”それってなんでーーー?”と本質的に何も変わっていない。僕は研究室でそう思うことができているからこそ、今この年齢になってもまだ尚、学生として研究室に居座り続けられていると思う。
この話を一般化させることに努める。
多分世の中に、目の前の人間を貶めてやろう、なんて常日頃考えている人間なんてそんなにいない、と僕は思う。だって
みんなそんなに暇じゃないでしょ、
他人のことを考えるって意外と大変なことだよ
と思ってしまう。
だから、他人に自分が追い詰められてしまったときには、”あ、この人にはこの人なりの事情があって私のことを問いただしているんだ”と客観的に見つめなおすことで自分のモチベーションを保てるといいな、なんてことを考えている。
みんないろんなことを思って生きているからこそ、他の人のことを思って生きている余裕なんてないよね。自分中心に考えるとこの事実はシンプルな事象に思えるけど、他人目線でこのことを思える人はそんなにいないんじゃないかな。
事実、僕は先週他人のことを思って生きられなかったので、偉そうなことは言えないけど、周囲に余裕を持って生きられるといいな、と思っている次第です。
周囲に余裕を持つということは、自分に余裕を持つことにもつながるので、結局自分のため、みたいな話でもあるんだけどね。
情けは人のためならず
本当にこの言葉通りに生きていけたらいいなぁ。