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巨人の野手登板をビジネス的に解釈する〜日本社会の思考停止

今日のトピックと背景

若干気を逸したテーマだけれども、先日プロ野球で物議をかもした出来事があった。巨人対阪神の試合で大差で巨人が負けている試合で投手ではなく野手が登板したのである。この当番は大きな物議をかもして野球関係者やファンから多くの賛成意見•反対意見が発生した。(下記リンク参照:https://news.yahoo.co.jp/articles/c3597c95ff400931334a13537a08daebcda2f841)

個人的にはこの采配には大いに賛成しているが、今回のテーマは作戦の是非ではなく、その采配を擁護する際によく出てきた“大リーグでは一般的である、今更問題視するのは時代遅れである”という意見についてである。

なぜ違和感を覚えるのか

なぜ“大リーグでは一般的である、今更問題視するのは時代遅れである”という意見に違和感を覚えるのかと言うと、この意見は理由付けになっているようで実は全く理由付けになっていないからである。そしてこれは会社においてもよく見られる思考停止状態に陥っているように感じるからである。

大リーグでは一般的であると言うのはあくまでファクトである。本来であればそのファクト(発生している事象)の背景にある理由まで踏み込まなければ賛成する理由としては成り立たないはずである。例えば公共交通が発展していて、かつカーシェアが定着している都会で自動車を持たない生活が一般化しており合理的であるからと言って、最寄りのスーパーに行くのに10km移動しなければいけなく、カーシェアも公共交通機関もない過疎地でも車が不要であるというのがおかしいのと同様である。

ビジネスへのアナロジー

これまで日米欧の色々な国の商習慣、文化を経験してきた(日系企業•外資系企業での勤務、アメリカ•北欧でのMBA)。単純に日本はダメだな、欧米はいいというつもりは毛頭ないし全く思っていないが、その中の比較において今回のような非常に表層的な理解を下にした判断•議論は日本社会•日系企業で非常に多いように感じる。つまり“誰々がやっているから”“xxが一般的になってきたから”と言う理由が意思決定の根拠になるケースが非常に多い。はっきり言って完全な“思考停止”である。

こういったいわゆる“盲目的な先例主義”は日本企業のイノベーションの欠如、ホワイトカラーの生産性の低さの一因でもあるのではないかと感じる。

まず前者に関してだが、イノベーションは前例のないところに生まれるのは言わずもがなである。その時に重要になるのは“前例”ではなく、“ロジカル•合理的に考えられた未来への仮説”だと思う。“みんながやっているから/やってないから”という理由付けの先に新しい取り組みや革新的な活動は生まれようがないことは明白であるように感じる。

また後者であるが表層的な理解による安易な意思決定は日本企業のホワイトカラーの生産性が低い事とも関係しているように感じる。つまり本質的な理由に対しての踏み込みが浅いため、対策やアクションが表面に出てきている事象の改善に終始してしまい、本来取り組むべきキーイシューにアプローチしないのである。いわば大動脈が切れて出血しているにもかかわらず表面に出てくる血をバンドエイドで必死に止血して対応しようとしているようなものである。日本企業の製造業(ブルーカラー)の競争力の高さはQC手法や“なぜなぜ”による真因の追求→それに対する改善活動がオペレーションレベルで徹底されていることに起因するものが大きいと思うが、ことホワイトカラーの業務においては逆の状況が散見される。つまり上記のような安易な前例踏襲主義や思考停止状態での意思決定が非常に多いのではないか。これまで実体験として生産性の高さでよくロールモデルとなるドイツや北欧の組織に関ってきたが、これらの組織は物事をロジカルに考えていき本質を見極めた上で、その本質に対してのみアプローチをしていくと言う合理性が非常に重視されている。だから無駄がないし、効率よく大きな結果を生み出すことができる。

働き方改革が叫ばれて久しいが、本質的に生産性を高めていくためには表面的な事象をロジカルに深掘りし真因を突き止め、そこにリソースを集中投下すると言う合理的なアプローチをすることが不可欠であると考える。

合理的に本質を問い詰める重要性

青学大の駅伝監督である原晋さんはこれまで陸上会で常識として捉えられてきた練習方法や根性論をベースとした目標管理法といった前例を合理的に検討しなおし、企業での目標管理方法の導入や今の世代のマインドセットに合わせた指導法を陸上界に持ち込むことで大きな変革を遂げたことは有名である。これこそ“みんながやってる”的な思考から脱却することの重要性をうまく表しているのではないかと思う。

個人的には今回の巨人の原監督(原続きですが)の采配に賛成すると述べたが、その理由は“①今期の日本プロ野球の過密日程やコロナによる投手の調整不足からくる怪我のリスクを低減できる②投球という行為がそもそも身体に負担をかける行為であり、投球機会を減らして万全な状態を整えることで、怪我のリスクを減らすとともにいざ重要な場面においてベストパフォーマンスを発揮させることが出来る、と考えるからである(そのロジックに対して反論もあるかとは思うが)

仮に違う状況であれば必ずしも大リーグで一般的だからと言っても、日本でいいとは限らないと考えると思う。(例えば日本の投手のベンチ入りメンバーの数々アメリカの1.5倍であるとか、試合数の密度が25%低いとか)

巨人の原監督も「俺たちは勝つために、目標(優勝)のために戦っているんだから。今年は、特にケガ人も多い。コロナ禍のルールというのもある。簡単に『ダメだ』と言うのは本末転倒のような気がする。(逆の立場の)俺だったら言わない」と言っているように優勝という目的のために、すべきことを合理的に考えた結果のアクションではないかと思う。

まとめ

合理性を追求すると“血が通ってない”などの批判を受けることがあるが、真の合理性とは人間性の排除とは繋がらないし、それも一つの短絡的な因果関係の類推であると感じる。

『盲目的に前例を踏襲するのではなく、合理的に真因を突き詰めて意思決定することが、今後の社会において非常に重要なことである』ということを今回の一件から感じた。

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