良い愚問と悪い愚問〜細かすぎて面倒くさい質問は本当に悪か?
今日は下記の記事について考えを整理したい。細かすぎてうんざりするような質問をし続ける会議の参加者はどこの組織にもいるのではないだろうか??しかし実はその質問を“めんどくさい質問”として切り捨てる場合に一瞬立ち止まって考えた方が良いかもしれない。
【参照記事】
会議で重箱の隅つつく「めんどくさい人」を一発で黙らせる天才的な質問 どんな相手もしどろもどろになる #プレジデントオンライン
https://president.jp/articles/-/40680
会議における悪い愚問
本記事には基本的に賛同する。その場のアウトプットに影響を与えない細かすぎる質問を繰り返す参加者はどの組織においても必ずいる。えてしてこういったタイプの参加者は大局が捉えられていないため、自分のしている質問がその会議の成果物にどのような影響を与えるのか、会議のアクションにどれだけプラスの作用を生み出すのかといった観点が抜けている場合が多いように感じる。事実そのような質問はあまり価値をうまない。
そういった質問ばかりする参加者はその場の会議において非常に厄介であり、場合によっては害すらも与える。
悪い愚問とされがちな良い愚問
一方で、同じように参加者(の大半)がめんどくさいなと感じる質問においても、実は質問者の方が大局を捉えており、参加者の方が近視眼的な場合も存在する。
これは質問者と参加者の能力差や情報量に大きな差がある場合に生じやすい。(例えば他の参加者には見えていない次の1手や間接的な影響を考えているが、そのためには報告内容があまりに歯抜けすぎる場合や、言葉やデータ定義が非常に曖昧であることに気がつき質問をしているケースなど)。
先のケースを悪い愚問すれば、後者は良い愚問(言葉は変だが)とも言えるがこの場合も質問自体は大局が見えていない参加者からすると同じく“めんどくさい質問”と感じられるであろう。
“悪い愚問”と“良い愚問”。本当に気をつけるべきは?
個人的には悪い愚問で時間を浪費することも当然良くはないと思うが、良い愚問をつぶしてしまうことの方が大きな問題だと感じる。
えてしてこのような良い愚問を悪い愚問として切り捨ててしまう組織は状況把握や課題設定の解像度が非常に荒く、またその中で意思決定をするので進むべき方向性自体を間違えてしまう可能性が非常に高いからである。進んでいる方向性が間違っていなければ悪い愚問で多少時間を浪費していてもそのことだけで組織が大きく傾く事はない。一方で進むべき方向性自体を間違えてしまえばその先には死の崖が待ち受けるのみである。
どうやって見分けるか?
そうなってくるといかに同じように見える面倒くさい質問が正しい愚問なのか悪い愚問なのかを見分けるかがKSF(重点成功要因)になる。その判別のためには、質問者に端的に“So why(なんでその質問をしているか)””So what(それが何なのか)”と問いかけるのが1番手っ取り早く、確実である。
コンサルでは口を酸っぱくして言われ続ける言葉ではあるが、良い愚問を投げかけている場合は質問者の中に何らかの仮説/アイディアがあり、その正当性を検証するために足りない“一見細かいピース”を埋めるための質問をしているので“私はxxxxではないかと考えており、質問の回答が後ではないかと推察している”“回答がAであればxxx、Bであればxxxと考えられるためどちらが正しいのかを知りたくて質問をしている”と言ったようにso why/so whatに対して明確かつ納得性のある回答が返ってくる。他方で悪い愚問の時は大抵答えが返ってこないか合理的でない回答が返ってくる。so why/so whatの投げかけは良い愚問と悪い愚問を判別するためのリトマス試験紙とも言えるだろう。
so why/so whatを問い続ける本当の意味
そして何よりも重要な事はso way/so whatを問い続けることで組織の意識を変えていくことである。その問いかけを怠り、一見面倒臭い良い愚問に日を当てていく作業を続けない限り、組織の思考力は高まらないし、どんどんと耳馴染みだけ良い浅い提案や論点が外れた議論に会議が埋め尽くされていき、マンネリ化や組織の衰退を招いていくことになるだろう。それは非常に怖いことである。
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