落としに行って病みつきに!2
■前のエピソード》
5月4日の滝行へ行った話の続き。
先に行を行った人が更衣室へ向かいざまに番を待つ僕の前を通り過ぎる時、「あっという間に終わる」とニコニコしながら言い去っていく。
主催者
「次、誰いく?」
白へび
「やるやる!」
いざ僕に番が回って来た、というより自分からやると言った。
最初に、滝つぼを見下ろす様に鎮座する不動明王が浮き彫りになった石像に向かって自分の名前をフルネームでしっかり言って伝える。
落ちて来た水が滝つぼでバチャバチャ鳴りまくるので、そこそこ声を張る必要がある。「聞こえないでしょ?相手に」そんな心理が僕にはたらく。
滝つぼの続きの水場に一歩入ると、足元に敷き詰められた石という石に、まず意識が向く。表面が流線形に磨きのかかった中身の詰まった石。風情(ふぜい)あふれる和式家屋の庭にありそうな石だ。裸足にけがをさせない配慮がされている。
がしかし、これが痛い!健康ツボ押しみたいな程よいイボイボ感が刺激してくる。
イボイボにうろたえる間もなく、今度は水の冷たさに意識が向く。マジで冷たい。
足の裏の痛みより冷たさに耐えながら、今一度不動明王の石像に頭を下げる。そして滝裏のわずかなスペースにもう一つ不動明王の石像がある。これは浮彫ではなく、立体だったと思う。そちらにも一度頭を下げご挨拶する。
いざ、滝つぼに入る。
滝が発生している岩肌を背に、背骨の最頭端(さいとうたん)にして首の骨の始まりのあたり、首根っこに水がヒットする様に位置合わせする。
『ベチ!ベチ!』当たる、当たりまくる!
でも耐えられる。
「あぁ‥、こういう感じなんだ~」
主催者が先達(せんだち)として滝行をすすめて行く。
般若心経(はんにゃしんぎょう)を高速で一読する。勿論暗記している。滝つぼに入っている間は書物を手に持つ余裕はない。それに両手は合掌している。そしてこの白装束と合掌がまた、滝行を行う僕を多次元宇宙へ一時的に移行させる‥ような気持ちにさせ、行をやる自分に酔わせてくれる。
高速で一読するのだが、通常の読み方とちょっと違う。先達はお経を唱えるとき、節目っぽい所で、行者をまるで『けさ斬り』するかのように右手や左手で相手を斬りつけるような動きをする。そしてそれを繰り返す。
恐らく斬りつけているのではない、払っているのだ。『余計な貰いモノをそぎ落とす意識をけさ斬りの動作で増幅させている』、そんな印象だ。
これは、チャネリングを行う僕には納得の動作だった。チャネリングを行った後、又は何か余計なエネルギーを感じるとき、手刀(てがたな)で自分以外の存在との繋がりを切断させる意味で、切り払う動作を行ったりするからだ。
『動作と意識』を同時に働かせることで効果が強くなるということなんだと思う。
余談だが、2019年に僕が通った矢追純一さんの宇宙塾でもこれに類似するレクチャーがあった。何か頭に良くないイメージが湧いてしまったら、腕で頭上を払うように動作し「『消えたぁ!』と声を張って一括する」と矢追さんは説明する。「すると消えるから」というのである。声と動作と意識を全て同じことのために同時発動させるとういわけだ。
こういう世界でも、同じような感覚らしい。
そうこうしている間に、読経(どっきょう)は終わる。続いて、不動明王真言を12回唱える。
この時、僕は不動明王の真言は
「なまく さまむだば さらなん せんだまかろしゃな そわたや うん たらた かんまん」といったような読み方しか知らず、主催者はじめ、参加者が唱えるある独特な読み方をわからないでいた。
上記のような発音とはちょっと違うのだ。
「の~まく さ~まんだ~ば~ ざらだん・・」
と言ったような発音だった。
言っていることは同じはずなのだが、発音がまるで違う。仕方ないので、何となく先達の発音に合わせるような合わないような発音をした。決して適当に言っているつもりはない。でも上手く発音できない。
しかし心の奥底では【熊本遠征でご縁を感じた不動岩】のお足元で見た不動明王の石像の姿が頭に浮かび上がってくるのである。不動明王の姿が頭に浮かび、その真言を唱える自分は何だかカッコイイ感じがしてきてしまう。
■関連するエピソード》
滝つぼの水の冷たさなど微塵(みじん)も感じなくなっている。が‥
読経が後半に入るころ、そして真言を唱えている間も、僕は水の当たる痛みを感じずにはいられなくなり、痛くて痛くてたまらず、水の当たる位置を体をよじらせたり、気持ち背中を曲げたりしながら痛みを分散させようとしたり、真っ直ぐ立ってられなかった。
なんとか・・何とか終わる。
真言を唱え終わり滝つぼからわずか10cmズレるだけで現実世界との境界にいるような妙な感覚になる。ゆるむ間もなく先達の誘導で、今一度不動明王の石像へ御礼を申し上げ、ようやく水場から上がる。
この時、足の裏には普通に足場の感覚が伝わってくる。暖かいのか?ごつごつしてるのか?砂利が少しあるのか?枯れ葉を踏んだのか?
要するに水の冷たさを感じなくなったのはマヒではないということだ。
水場から上がる瞬間から、何だか『軽い』
本当に軽い!!
これが昔っから行者という人達が行ってきた『修行』の一つのかたちなんだ。修行という状態は何らかの極限状態を集中体験することを指して表現する単語なのだ。
『修行とは小宇宙の体験』なのだ。僕にはそう思えた。小宇宙とは自分のハートのことかもしれない。
とにかく、けがもなく無事滝行を終えられた。と同時に、滝つぼに一緒に漬け込んであった持参した水晶。これらも清められたということだ。
最後に水揚げされた水晶はどういうわけだか、いつも以上に美しく見える。
この一回の滝行体験は、人知を超えていた。
『また、やってみたい!』
すぐさまそんな気持ちでいっぱいになる。
それに、真っ直ぐ立ってられなかったし。これは「またおいで」と言わんばかりの不動明王からの招待状に違いない。
つづく
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