祖母が嫌いだった私が介護の仕事を選んだ理由(後編)
(前回はこちら)
漁師の家に長女として生まれた私の祖母は、今では死語に近い「女だてらに…」「男まさり」という言葉が似合う人でした。それは彼女の人生を知ると強くそう思います。
祖母の結婚相手は祖母の実家の隣町出身の男性でしたが、それまで見たこともない人で、親に言われて、男性のいる中国の満州までひとりで行きました。男性は満州鉄道に勤めていました。言うまでもなく、その男性が私の祖父です。
そこではお手伝いさんがいるような裕福な暮らしをしていたそうですが、戦況が厳しくなると祖母たち家族は日本へ戻ってきました。しかし、日本では仕事も住まいもありません。祖父は株の相場師として単身大阪へ、祖母と2人の男の子(そのうち、一人が私の父)は祖母の実家へ居候を始めました。
居候と言えば、肩身の狭い思いをしながら生活するのがふつうですが、祖母は長女というアドバンテージ(?)を活かし、大きな顔をして生活していたと、親戚が集まる場所ではいつもそう聞かされていました。
思い返せば、明治の女としては大柄で、ふてぶてしい顔をしていた祖母。小柄でほのぼのとしたおばあさんを「可愛い」と思える気持ちは分かりますが、祖母にはまったくそういう要素がありませんでした笑
そんな豪快な祖母を姑に持ち、一緒に暮らした母も大変だったろうと思います。
ある日の晩、2階で寝ていた私は、あわてて階段を上がってきた母親に起こされて祖母の最期を見送りました。人の死を生まれて初めて身近に感じ、茫然としていたと思いますが、悲しい気持ちにはならなかったように思います。
それよりも、なんとなくですが、母が介護から解放される安堵感のほうが強かったと思います。その期間はだいたい2か月ぐらいでしたが、たった2か月とはいえ、それまで平穏な生活の場だった我が家が、ある日突然、要介護者が現れたことによって緊迫した場所に変わっていったことが、私の心理に大きな影響を与えている気がします。
考察してみると、私が介護の仕事を志した理由は、当時は当たり前だったかもしれませんが、仕事を辞めてまで祖母を介護する母親の姿と、緊張感に包まれた家庭から自分も解放されたい、という感情がそうしているのだと思います。
つまり、「介護を受ける人」の気持ちよりも、「(直接的にも、間接的にも)介護をする人」の気持ちのことを考えているのだと思います。
ケアマネジャーとして20年、そしてカイロプラクターとして1年。介護する人、および介護を受ける人、および要介護者がいる家庭が平穏で穏やかに過ごせることをめざして、これからもできる限りのことをしていこうと思います。