劇場版モノノ怪 唐傘 考察1 形と真と理は?お水様の正体とは?
◆2024年7月26日 待望の劇場版モノノ怪 唐傘が公開されました!
テレビシリーズから17年もの時を経て…不朽の名作なるが故に多くのファンに待ち望まれ、劇場版として大スクリーン上に蘇ったモノノ怪。
毎秒押し寄せる眼福、宝石箱のような豪華絢爛な色彩の洪水の中、中村監督自身が「倍速を意識した」とのお言葉通り、息もつけない超スピードで物語が展開していきました。
きっと監督はもう分かってる。「どうせ君たち何度だって見に行くでしょ?」ってね (笑)。だからの超スピード、だから一度で理解できなくても大丈夫!と…。(ちなみに私は10回見ました )
さて、皆さまの感想はいかがだったでしょうか?
考察1 では、あの超速展開で一度見ただけでは ❓❓❓ となるであろう何点かに絞って、考察していきたいと思います。
※注1 モノノ怪シリーズ好きでたまらんという方向け&映画見たけどよく分からなかったけど知りたい、という方向けに書いてまして、人物設定や基本の説明などはふっ飛ばしています、何卒、ご容赦願います🙇💦
※注2 ネタバレあり です。ネタバレありきでも難解でしたが、楽しみにされたい場合はここから先は鑑賞後のお楽しみということで!
※注3 わたし個人の考察・感想です!間違いのままの部分もあるかもしれません・・・何卒ご容赦くださいませ
◆疑問1 モノノ怪の 形・真・ことわり は何だったのか?
さっそくですが、モノノ怪の 形(かたち)と真(まこと)と理(ことわり)は何だったのか??という基本的な疑問です。
・形とは
モノノ怪の形は、映画のタイトル通り 唐傘。
(でも、そう明快に決めつけるには、色々疑問が残るんですよね・・・もう一段階深い 何者か がきっといる・・・)
・真とは
真(まこと=事のありさま、事実)は、2ヵ月前、大奥で行われる予定だった、天子のお子の誕生前祝いで行う大餅曳の儀が怪異により延期された事。怪異とは、大餅曳の儀で重要な任務を負う御祐筆の職位だった北川が行方不明となった事件。北川は実家に帰ったというのが表向きの理由だったが実家には帰った形跡はなく、真相は北川は井戸に身投げし、その事実は隠蔽されたのだった。
・理とは
理(ことわり)は、なぜモノノ怪となったのか、モノノ怪の心のありさま。言い分・心情(心情推移含む)のようなものだと思いますが、
この理(ことわり)の部分が、なかなか一言にはおさまらず。単純明快ではないんです。それがこのモノノ怪の深さであり魅力であるのですが。なので、考察1(このページ) の疑問2,3,4 と考察2でじっくり解明していこうと思います。
◆疑問2 なぜ「乾いてはいけない」のか?
大奥へ来た初日に各自の一番大切なものを投げ入れた生臭い井戸の水を毎朝飲み、常に雨が降りしきっているような描写の 乾くはずもない、水に満ちみちた大奥の中で
なぜ北川は「私は乾いてしまった」と言うのか。また、なぜ「乾いてはいけない」と言ったのか?
北川が最初の日に井戸に投げ入れた大切な人形を象徴として、物理的には確かに捨ててしまった。けれども、心までが、大事なものを忘れ去ってしまった状態の事を「乾く」といっているのだと思う。
とすると、モノノ怪が唐傘の形で現れることが不思議に感じる。なぜなら、傘は、雨を、水を、よけるためのものだから。
しかも、唐傘は 淡島と麦谷の二人の体の水分を奪い、からからのミイラにしてしまうのだから。
” 捨ててしまったけれども、捨ててはいけないもの。”
” 乾いてはいけない、けれど、雨を避けるもの。”
この相反する二つの狭間に傘はあり、この矛盾をつなぐ象徴として傘はあり、北川の人形の手から、相反する矛盾をつなぎとめていた傘はなくなってしまっていた。
北川はカメと似た、あまり大奥の職務に向いていない自分の相方に暇を出し、これで心おきなく職務に専念できるはずだった・・なのに北川の心は壊れて行き、大餅曳の儀の前に気がふれた様になり、ふわり逃げる傘に誘われ井戸に自ら落ちてしまう。
中村監督いわく「北川さんは死んだ先に私の捨てたものと出逢える世界があると信じてる。(だから嬉しそうにやってくださいと北川役の声優さんにお願いし、声優さんはすごく難しかったと答えている)。
通常はネガティブなものだが、それがその人の幸せや救いになる部分は絶対にあると思っていて、自分の欠けたものと折り合いをつける、決着をつけるしかなかったのかな」と。
劇中では さまざまなものが 象徴としてそこかしこに散りばめられ、メッセージを伝えてくる。傘をなくした人形、手毬や万華鏡・・
そして、北川 行方不明事件に続き、次の怪異が起こる。
先輩女中の麦谷と淡島の二人の、アサへの嫉妬、カメへのイラつきが募り、渦巻く情念が頂点に達したその時、、
かつて井戸に投げ入れたそれぞれの大切な、麦谷の手毬が、淡島の万華鏡が・・まるで彼女らの分身として、大切なものを思い出して!と、二人の激情を食いとめるかのように彼女たちの周りに現れ、飛び跳ねる中で・・・
唐傘に取り込まれ ” 乾いて ” しまった 。
取り込まれる直前、麦谷はあやかし色の涙を流す。「なぜ涙が出るのだろう」という茫然とした一瞬の表情が悲しかった。
●疑問2のまとめ:
・「乾く」とは‥物理的に捨てる・捨てない よりも 心の大事なものを捨てて忘れてしまうこと。
・なぜ「乾いてはいけない」のか‥幸せになれないから。唐傘に取り込まれてしまうから。唐傘は、乾くと不幸になってしまうからそれを止めたいとも思ってる(、かも…止めようとして?人を殺めてしまうんだから、矛盾してますが。これがモノノ怪の領分?)
※北川は御祐筆としての髪を結った着物姿と、病んでいる時の部屋着の髪をおろした姿が入れ替りたちかわり描かれます。部屋着の姿の時はモノノ怪寄りで、髪を結った姿は人としての北川、両方の要素を持って物語に出てくるとして見ると、途端に複雑さが減って話がよぉく見えてきました。象徴であらわしていくというのが本っ当に見事な作品ですよね。
※公式様よりの一文も載せますね。
◆疑問3 なぜ「許せ」なのか?
かつての北川とその相棒との関係にそっくりな、アサとカメの二人。うち、北川が相棒を離してしまったように、アサがカメを離してしまうのではないかという危うい時に、唐傘は再びうごめき始める。(昔話の傘のお化けは捨てられた傘が化けてました。”捨てる”に感応するモノノ怪なのでしょうね。)
それは「私の二の舞を踏まないで」という北川の警告でもあり、
自分と同じ道をだどってしまう誰かを守りたい、という北川の思いに感応して現れたモノノ怪のように思う。
恨みつらみなどではなく。「北川様は どなたの事も恨んではいないと思います!」と劇中でアサが歌山様に言った通りに。
唐傘は、心まで ”乾いてしまった” 者の水分を奪い文字通り「乾かして」しまう。
いわば殺人でありながら、同じ轍を踏まないで、という警告と、(”乾いた”ら取り込んで雨にしてしまうのだけど) 心まで乾く事から救いたい、という意図すら見えてくる。
直訳すると、唐傘は「捨てられて悲しかった。(そして捨てる方も悲しい、)だから、捨てちゃダメだ!」そんな幼子のような一念で動いているのかな。
けれど救いたい思いだけではもちろんなくて、今までの井戸の底に捨てた・捨てられた悲しみや恨みの思いの集積とも複雑に絡んで結びついて。救いたい思いはあれど… そこは人の世にあってはならぬモノノ怪、淀んだ想念が集積し、力を持ちすぎて人を殺めてしまう?
”捨てる者” ”捨てられる者・物” その古井戸の底によどむ打ち捨てられた思いのひずみは膨れ上がり、モノノ怪の形をなしていく。荒れ狂った唐傘の触手はまるで連なる涙のようだ、と思う。
薬売りさんはそのモノノ怪の理(ことわり=心のあり様、心情)を汲んでいるからこそ 「許せ」 なんだと・・・
モノノ怪シリーズに一貫して言えること。『退魔の剣で斬る』とは、悪者・化け物を正義のヒーローが成敗し、めでたしめでたし。・・では、ない。
すべての経緯を明らかにし、思いをもしかと受け取った上で成仏していただく、といった意味合いに近いと思う。
モノノ怪の領分のモノノ怪の言い分、 ”ことわり” がしかと受け取められ、怒りの奥にある深い悲しみや憂いから解き放たれ、昇華されていく様な・・(ayakashi化け猫では薬売りさんに思いをしかと受け止められて、化け猫がぼとぼと大粒の涙を流していたな・・・)
だから深い、だから皆 この物語に惹かれる。
* * *
そして「一緒に行きましょう」と、北川の人形を胸に抱え、民衆の柏手と共に晴れ舞台の階段を上がるアサ。一緒に行きましょうね、のところ・・毎回、涙しました。「一緒に生きましょう」にも思えて・・
大餅曳の儀では、「よいしょー!!」勇ましい掛け声、凛とした表情で御筆を振るうアサの晴れ舞台。
北川の人形を箪笥にしまう時、アサは人形を見てふと気づく。
「笑ってたんだ・・」
北川の人形は傘をさし、にっこりと笑っていた。
ラスト、薬売りさんの手の上でくるくる回っていた天秤がぴたりと止まり、(この天秤さんの動きは、傘の動きと同期してるのかな。ぴたりと静止した時、元の居場所、お人形さんの手に戻った?人形と傘が再び出逢えた?) 傘が人形の手に戻った事を薬売りさんは離れていても感じ取り、空を見上げ微笑んで第一章が終わる・・この世で一番美しい微笑みでした・・・
モノノ怪のことわりは、切なくて、深い。思わず 『のっぺらぼう』の、お蝶さんの台詞を思い出す・・・
(かなしき、モノノ怪。ありがとう、もう大丈夫・・・)
◆疑問4 お水様の正体とは? (謎のまま次作へ!)
大奥は至る所、雨が降る様が美しく描かれ、常に水びたし。
天子様が「私は乾いた」と言い、夜伽の相手を選ぶ際、「私は乾いております」と告げる者は選ばれず「私は乾いておりません」と告げるフキが選ばれる。交わりの前には、苦痛の様相 (謎です!)で二人が無理やり三角の器でグレーがかった粘度のある水(?)を交代で飲み干す。
大奥での勤め始めの日に、組織の為に個は捨てる決意表明として、一番大切なものを投げ入れる儀式があり、お水様信仰として毎朝三角の器で飲み干す生臭い井戸の水。
初日には耐えがたかった水は、次第に慣れて疑問も持たなくなっていき、顔が渦巻きで表現されるようになり・・取り込まれる・・
モノノ怪シリーズの魅力の一つに、モノノ怪にはモノノ怪の領分と言い分があり、悪は悪そのものでもなく、同様に完全なる正義もないというのがある。
何層にも折りたたまれた矛盾に満ちた人の心の紡ぎ出すひずみ (闇) にモノノ怪はひそみ、モノノ怪の現れるところ退魔の剣を携えた薬売りさんが現れる。
人の心と同様、この矛盾がすべてに於いてデフォルト設定、とすれば逆に色々な事が見えてくる。
矛盾がデフォルトであるならば、
唐傘はモノノ怪であり人を襲う、と同時に、唐傘は 乾いてはいけない、私のように乾いてはダメ、そんな守りの思いの暴走であったかもしれない。
そして、大奥で信仰されているお水様も、矛盾が見えてくる。
神聖な信仰対象のはず、でありながら、同時に、何か別の存在として劇中で垣間見た気がする・・・まるで皆の捨てさせた思いを養分として吸い上げ生きている生命体?のような・・(地下神殿に咲き乱れる花、屏風絵の人の顔をした花が気になる・・)
報告書を読んですぐさま三郎丸は井戸の底に降りていく。阿鼻叫喚の様相の井戸の底で三郎丸が見たものは・・・・次章に続くであろう、凄惨で異様な光景だった。
そして今回はほぼ出番のなかった溝呂木司祭が怪しい事を言う・・「水はうまいか? 天(あま)…いや 御水様か」と・・・そして、その問いかけに応じて地下神殿の壁の大蛇(?)の鱗が動くんですよね。(伏線!)
「お水様は火種を好かれておりません」(大友ボタン)
↑この台詞にもセンサーが立つ。水に見えながら水ではない、水に溶け込んで潜む意思を持った生命・・?ならば正体をあぶり出されない様、火を嫌うでしょうね・・なんて思ったり。 (わたしの勝手な憶測。ですよ。)
終盤、大奥の七つ口の外にある井戸に貼られたお札は無反応のままで、「まだ 形が見えぬ・・」と薬売りさんがつぶやく。明らかな伏線!
そして次作は、火鼠!!
エンドロールで延々と回転する地下神殿の三柱には三貴神(素戔嗚、天照、月読)らしき神々が描かれ、うち月読(・・かなあ?)に繋がる縄が一本切れていた・・・これも伏線・・・(縄が切れたのは、唐傘が清め祓われた時だった。)あの三柱の中央の塔の中には一体何が??
なんこれ・・火鼠公開の3月まで待ち時間、長し!!
にしても・・・北斎ブルーの主線に日本古来の色彩が和紙の上で展開するという比類なき日本の絢爛美の中で、象徴を発見し読み解き進み。モノノ怪の言い分が聞き届けられるまで抜けない剣、という懐の深さ。これは、映像も内容も(声優の方々ももちろん)世界最高峰ではないでしょうか? もう、国宝と呼びたい。動く正倉院です。
中村監督は次のようにも言われています、
「さらに3部作全体で大きな一つの『情念』を薬売りが斬る物語にもなっています。全力で制作してまいりますので、引き続き、何とぞ皆々様、今しばらくお付きあい願いたく候!」(いや監督、今しばらくどころか、普通に一生、付き合いますよ?こちらこそ永の創作をお願い致したく候!)
一体、お水様とは・・?? ( 伏線列挙しただけで謎のままです! )
大きな情念とは・・実は・・・お水様なのか?? 果たして???
* * *
壮大な三部作シリーズになるそうなので、たくさんの回収出来ない伏線が張られています。謎は謎のまま第一部はおしまい (泣)。首を長くして (首が伸びすぎて自分がモノノ怪になっちまう~笑) 次作「火鼠」の公開を待つことになりそうですね!
( 超長文をここまでお読みくださりありがとうございました)