なぜ、電車に乗ると不快な想いをすることが多いのか?なぜ、デスク横の彼のタイピング音が気になるのか?
「よし、今日は充実できた!」
「ああ、楽しい休日だった!」
と、心から思う1日が、1年間にどれほどあるだろう。
少なくとも、私はハッキリと断言できる。きっと ”20日” 以下くらい。自分で書きながらも、「コイツ寂しいやつだなぁ」と思われる恐怖心はあるが、それ程に悪い日々を過ごしている訳ではない。友人と大笑いして帰る日もある。仕事で褒められてルンルン気分な一日だってある。
ただ、その日の終わりに、心の底から噛みしめる程の満足感に包まれる一日だったかと自分自身に問いかけると、否である。
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「自分に合った、上質なライフスタイル」を良いとする現代人が多い中、日々それを叶えられている人は、どれくらいいるのだろうか。
美味しいご飯を食べた日でも、成果を認められた日でも、誰かに褒めてもらえた日でも、ちょっと得をした日でも、何か些細な気になる事=少し不快なことがあると、神経はそちらに引っ張られてしまう。
例えば、同じ電車で同じ号車に乗車をしていたとしても、何も感じずに気分良く乗れる人とそうでない人がいるに違いない。
私は、電車に乗れば誰か少しマナーが悪い人の行動が気になってしまうし、そういう人を物凄い早さで発見してしまう。そして、こんなことばかり意識しているからか、「引き」があるのであろう。そういう人は大概私の近い距離にいるのである。整体に行けば、枕が少しクサかったりする気もするし、髪の毛が落ちていれば、その散らばった毛がまるで写真で写したかのように鮮明に記憶としてと残ってしまう。映画を見始めると、「そういえば歯が痛かったな。」「背中かゆいな。」と気にかかってしまう。カフェでは、隣のタイピング音ばかりに気を取られてしまう。またある時は、知り合いとの会話で褒めてもらうことが続くと、その発言を疑っている訳ではないのだが、「本当は?」と辛辣な現実的意見を聞きたくなってしまう。(めんどくさいだろうと思ってそこまではしないが。)
気にも留めなくて良いはずの、自分にとってはどうでもよい誰かの一言が、どうでも良い誰かの行動が、どうでもよかった自分自身のオプション的なことまでも、意識をし続けホトホト疲労してしまう、哀しい。
100万部を突破した渡辺淳一さんのベストセラー『鈍感力』が、かつて大ヒットしたが、ストレスを抱えている人が多いからこそ、ああいった自分を緩ませるために努力をする系の書籍がヒットするのは言うまでもない。そして、この力はつくづく自分に無いものだと思う。
パッとイヤな事を見つけてしまったり、自分の痛い所に気付きがちだったり・・・・「神経質だ」「過敏すぎる」と言われてしまえばそれまでなのだが、これが意外とズボラな所もある訳で・・・何とも説明しにくい性分なのである。
なおかつ、この”生き辛さ”を、きっと、ずっと付き合い続けていかなければならないことを薄っすらと分かってしまっている。
流石に、こんな悶々とした感情と日々付き合い続けていると、もう自分をありのまま受け止めたくもなってくる。この"生きづらさ" を、パステルカラーの包装紙に包んであげて、自分の心にそっと優しくプレゼントできる、上手な方法はないのだろうか。
この積年の悩みをいとも簡単に解決する事が、最近あったのだ。
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「自ら、わざわざ不快を探しているんです。」
「どこにいっても、何をしてても、”自然に快を見つける人”と”自然に不快を見つける人”の2種類に分かれます。不快を見つける人が悪い訳ではなく、感情を敏感に受け止める才能だから、世の中への問題提起心は誰よりも強いっていう長所と思えばいいんです。」
フジテレビのバラエティー番組『ホンマでっか!?TV』にて、誰がゲストの回か忘れてしまったが、心理学者の植木さんが放った言葉だ。日常で気になることが多く、そのストレスを発散するためのトークライブを行うといっていた、ブラックマヨネーズ吉田さんの悩みに対する一言だった。
この時ほど「ありがとう・・!植木先生・・!!」とブラウン管の中の人物に伝えたくなったこともないだろう。
たった少しの言い回しなのだが、なんだか自分の嫌な部分が溶かされて、何とも言い難い欠点を受け止められる気がしたのだ。自分の嫌な所は、ただただ周囲に対する発見探知センサーが発達していただけなのだ、と。
書き忘れていたが、諦めが悪い所が私のもう一つの特性だ。実はこの放送後、自分の中にある「不快探知機」を「快☆探知機」にシフトチェンジするよう日常レベルで努力してみたのだが、驚くほど疲れるので即座にやめた。
そこで、いよいよ私はこの性分と付き合っていくと腹を括った。
「不快を求めて三千里の旅」の始まりだ。
きっとまた明日も、一歩外に出たら”不快なこと”を見つけてしまうんだろう。
楽観的に生きることが出来ない苦しみを感じる度に、自分に嫌気がさすだろうけれども、ただわたしは日常に飽きることはない。
だって、何かを思いっきり伝えたいという瞬間に溢れている。愚痴でも、主張でも、何でもござれ。それが、正当であるか無いかは私にとって重要ではない。なにも感じないよりも、窮屈なほど敏感に感じてウダウダやっている方が、良くも悪くも発見があるからだ。
そして、こんな自分だからこそ、珍しく訪れる、”喜び” や ”満足感” は果てしなく大きい!
聖人君主を目指すことを諦め、ストレスや気付きを受け入れる。その果てにこそ、人から紡がれた温かさの意味を知ることができる、と思いたい。
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