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<旅日記⑧ Sep.1995>ホーチミン・シティ~メコン・デルタ(ベトナム)

ベトナム国内旅編

 わたしがベトナムを初めて訪れた1995年は、その国が外の世界に再び門戸を開け始め、外国人がベトナム国内を自由に旅できる状況が整いつつあった時代なのだろうと思う。「観光」というものに対するとらえ方も、ベトナム人と外国人とのあいだではギャップがあって、そのことが楽しくもあり、トラブルの原因となる両面があった。

ハノイから28ドル(バス・すべての食事・ホテル・トレッキング付き)で、2泊3日ハロン湾ツアー

 うれしかったのは、とにかく安い料金で国内の旅ができたこと。

 たとえば、これは、それから5年後の話だが、ベトナムの首都ハノイから、フランス映画「インドシナ」の舞台ともなった景勝地で、いまは世界遺産に登録されているハロン湾の島への2泊3日の旅。バス・船・ホテル(3食付き)、島内でのトレッキング(ガイド付き)、農家でのデザートパーティ等々をすべて入れたツアー料金が28米ドル。1ドル100円としても2800円。

 こんな旅が、現地の旅行代理店(カフェ)ではよりどりみどりだった。

 ハノイからハロン湾の入り口まではミニバスで5~6時間もぶっ飛ばす危険や、島までの2~3時間乗る船を海の上で乗り替えなければならない状況が起きたり、帰りには動かなくなったバスをみんなで押してエンジンをかけたりと、いろいろありだった。が、その分、たまたま、同じツアーに参加した、さまざまな国々の7~8人とは3日間も共にするので同行したベトナム人ガイドを含め、友情も芽生える。そんなふうに過ごした旅の思い出は何ものにも代えがたい。この旅に使った28ドルは千金どころか万金に値する。

 「引き返そう」と決断

一方で、途中で引き返そうと怒りを込めて決断する旅もあった。これはもとの1995年9月のホーチミンでのこと。

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宿泊先の「ゲストハウス72」に半ば家族のように入り浸っていたシクロ(自転車を使った人力車)ドライバーのハオさんに頼んで、メコン・デルタに出掛けることになった。かれは張り切って、そのためにホンダ原付もレンタルしてわたしとの旅支度を済ませ、メコン川流域の ミトーという村へ。猛速度の原付の後部座席にしがみついて、2時間、3時間。ハオさんが発する片言英語の「ビュー・ち・フル」と聞こえた呼び声で、ようやく、メコン川が見えてきたことに気付いた。

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 到着すると、街にたむろしている2人組のお兄さんと交渉し、船外機付きのボートでメコン・デルタのジャングルへ。料金は「いくらだ」と聞くと、1時間あたりいくらだという答えしか返ってこない。広い川の中の中州のジャングルに立ち寄ったりしながら何時間か乗船するが、いったい何時間乗らなければならないかを尋ねてもあいまいな答え。

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 ハオさんは何も言わない。

 このままではいくらかかるかたまったものではないので、もう戻ろうと言い放った。「もうすぐ着くから」とわたしをなだめるが、もう甘い顔を見せない。

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 ハオさんも困った顔をしているが、他に確実な選択肢はないのだから。

 その日は、川の近くに安宿を探して泊まる予定で、ハオさんは野宿をすると言っていたが、それも取りやめ、ホーチミンへ帰ると告げた。

 帰りの原付は、2人無言のまま、来るとき以上に速度をあげていた。

 おそらくハオさんとしては、メコン・デルタで付き合いのある業者とのあいだが気まずくなったかもしれない。それに、ふだん使っているおんぼろのシクロとは 別にレンタル業者にお金を払って2日間分借りた原付であろうし、それをキャンセルしなければならない。 

 かれの2日分の収入に大きく響いたことだろう。しかし、わたしは、旅の安全を優先しなければならない。

 1人旅は、安全の確保のため、ここから先に進むべきかどうか、交渉の相手を信用するか信用しないかの判断を迫られることがある。付き合って数日になるハオさんは信用していたから、メコン川という大河の中で発生したトラブルであっても船を操っていた2人組がいても、大丈夫だろうという気はあった。しかし、わたしに選択可能な金額が提示されなければ、その話には乗れない。蹴るしかない。

 後味は悪かったが、そういう決断をした。

 翌日、シクロドライバーのハオさんは自宅にわたしを夕食に誘った。

 木造の何階建てだろう。日本の家の台所のような広さの1フロアに1家族。いきなり、よその家の薄暗い灯りの夕食の場を通って、一本の柱に沿ってぐるぐる上がっていく階段に 何層か上り、そのたびに知らぬ家々の夕食をのぞくことになる。

 かれのすみかには、奥さんと子どもがいた。米粉を原料とした、ペラペラのせんべいのような食べ物があるだけだった。そういえば、ハオさんは痩せている。

 わたしを招待したのは、このような生活なのだという、アピールでもあったのだろうなと思うと、やりきれない。翌日からまたかれのシクロに乗った。

(1995年9月19日)


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