
#14 母、はじめての救急搬送
2022年に入り、週一の母のサポートは四年目。介護度は要介護1のままとてもゆっくりと進行していた。テレビでは、安倍元首相の銃撃事件や、統一教会問題が毎日取り沙汰され、七月に入るとオミクロン株の流行により感染者数がトータルで一千万人を超えた。私たちはマスク生活。そして忘れられないのはその夏が酷く暑かったことだ。
ある日の午後、私はいつもどおりに母のいる実家を訪ねると、いつもは玄関まで自力で出迎えてくれる母がいない。
「どうしたの?」と声をかけるとうつろな返事が返ってくる。中に入るとへたり込むように布団に横たわる母がいた。「あれ、様子がおかしい…。」
母の体に触れるとひどく熱く、手足には力がなくぶらんぶらんになっている。この頃には動くことが面倒になっていたので、その延長かと最初は思ったが明らかに違う。高熱と衰弱から、熱中症ではないかと思った。まずは水分補給と思い冷蔵庫を開けると、一週間前に作り置きしたおかずの大半が食べられずに残されていたのだ。私はこの瞬間にことの重大さを認識した。いつもは冷蔵庫を空っぽにするほど食欲旺盛な母だったが、私が帰ったあとのこの一週間、栄養が全くとれていないのだ。
「お母さん、大丈夫??」
母はぐったりと横になったまま動かない。汗をかいた服を着替えさせようとするけれど、熱を帯びた母の体は重たく、体の向きを変えることもうまくできない。大変だ…、混乱する頭の中で、救急車を今すぐ呼ぶべきか逡巡する。私はそれまで一度も救急車を呼んだことがなかった。
その時、事前に固定電話に接続してあったアルソックの見守り装置があることを思い出し、その相談ボタンを押した。二十四時間いつでも医療関係者が待機してくれていて、高齢者が体に不安があるときにボタンを押せば通話できるサービスだ。
「もしもし、Fさんどうしましたか?」と優しい女性の声がする。私は焦り気味に母の状況を説明すると、「それは救急車を呼んだほうがいいですね」と即答。すぐに救急車の手配をしてくださった。非常に素早い対応に一人で対応する心細さを払拭してもらうことができた。
15分くらいだろうか、アルソックの制服を着た屈強な感じの方が飛んできてくれて、その後にすぐに救急車のサイレンが聞こえてきた。母は幸いにも意識があったが、熱でぐったりとした母を車いすにのせるのには救急隊の方でも苦労されていた。
「熱中症かもしれません。一週間ほとんど食べられていないんです・・・」
救急隊員の方の質問になんとか応えながら、私は救急車を呼んでしまったことに申し訳なさを感じていた。コロナ禍で医療が逼迫していることもあったが、世間体を気にしてしまう自分に気づきはっとする。
「ごめんね、ごめんね…」と毛布に包まれた母の足元をさすりながら心の中で呟く。はじめての経験で緊張が止まらなかった。
搬送先の病院で検査と救急処置がとられた。二時間くらい待つと、点滴中の母と面会できた。血色もよい。集まった家族一人ひとりに視線をおくりながら母は意外にもけろりとした表情で「大丈夫よ」と言った。ああ、よかった。担当の医師によると、腎盂腎炎とのこと。尿道からばい菌が入り高熱がでたのではないかとの説明があった。
腎臓がもともと一つしかない母は、腎臓が弱い。高齢ゆえ入院を覚悟していたが、抗生物質で治療可能とのことで入院には至らなかった。会計をすませ、私と母はタクシーで帰ることにした。
タクシーの中、まさかのコロナ判明
私たちはタクシーに乗り、「点滴って最強だね。」などと笑って言い合う余裕を取り戻していた。まもなく最寄り駅というあたりで私の携帯電話が鳴った。さきほどの病院からだ。
「Fさんのご家族でしょうか。〇〇病院のものですが、大事なことをお伝えし忘れていました」
ん?なんだろう。ちょっと固まる。そのあと衝撃的な一言が聞こえてきた。
「あのですね、、、、Fさんの検査結果ですが、コロナが陽性でした」
え!!まさかの?と思ったが、ここはタクシーの中。
「コロナ陽性!」なんて大きな声は出せない。私は驚きと衝撃を飲み込み、タクシーを降りるまではそのことを口にしなかった。
「お母さん、今病院から電話でね、お母さんがコロナ陽性だって。」
「・・・・・・」
一難去ってまた一難だ。なぜ病院にいる時に検査結果がわからなかったのだろうと思ったがもう遅い。病院からは保健所の指示に従うようにとのこと。当然ながら私自身も濃厚接触者として陽性確定だと覚悟した。
保健所からの電話はすぐにきた。母の年齢だと入院ができるがどうしますかと聞いてくださった。少し迷ったが入院は可哀想に思えて自宅で母の様子を見て過ごします、と私は答えた。「もしも入院するということになればすぐに対応しますので遠慮なくご連絡くださいね。」と電話から優しい言葉が返ってきた。私自身が濃厚接触者だということも含めて気を配ってくれているのだ。当時の保健所の皆さんはどれだけ忙しかっただろうかと思うが、丁寧で適切な対応をしてくださったことがありがたかった。
コロナ陽性の母と私の自宅療養は二日目。やっぱり病院でしっかり診てもらったほうがいいのではないかと思い始めた。相手はコロナだし、ちょっと可哀想でも安全なほうがよいのではないかと。あらためて保健所に電話をしてみると、幸い病床に空きがあるとのことで一時間後には民間の救急車を派遣してくれることになった。なんというスピーディーな対応だろうか。「ありがとうございます」と私は何度も電話口で頭を下げた。
隔離病棟からの生還
やってきた民間の救急車は普通の白いバン。しかし出てこられたドライバーさんは完全な防護服に身を包んでいた。その風景に私たちはぎょっとする間もなく、母と入院の荷物は車の中へ。
「お母さん、あのね・・・」
車は早々に動き出そうとしている。
母は不安そうに、人差し指を一本たてて私を見つめている。
「一人で行くの?」
と聞いているのだ。
私は頷きながら
「ごめんね、そうなの。私は一緒に行けないから」
と聞こえるわけがない母へと答える。
車が発車して後部座席からこちらを振り返る母の姿に、どうしようもない切ない気持ちが押し寄せ涙が溢れ出す。と同時に頭の中に不謹慎に流れてくるドナドナを一生懸命かき消していた。
後期高齢者でコロナ患者の母はHCUという高度治療室に入院することになり、陰性が証明されるまで家族も面会が禁止された。熱中症と思われた母の症状はコロナだったのだ。母を見送ってから、取り寄せていた抗原検査キットで確認してみると、私はなんと陰性。かなりの濃厚接触だったのだが、母は一人でコロナと闘い、感染力が弱まった終盤に私に発見されたことになる。母は偉大だ。
そのようなことで、自分は陰性でもあるし、面会にも行けないため、実家を離れることにした。前日に内科の先生から直接お電話をいただけていたこともあり安心できた。その先生からは翌日にもお電話があった。
「Fさんですが、昨日の夕食、今朝の朝食、そして昼食…(ドラムロールのような間) …完食でした!」と。
その面白い言い回しに思わず笑ってしまう。ありがたさを噛み締める。不幸の中にも幸せは見つかるものだ。
アルソックの人、救急隊の人、医療従事者、保健所の人、みんなみんなとても親切で対応は素晴らしかった。何かあったときに助けてくれる確かな存在に触れ、私たち親子は大いに力づけられた。母は予定より早く退院することができ、その年の暑い夏の非常事態が過ぎ去った。