Writing
筆記具を使って文字を書かなくなって久しい。全く、ではないが。
はがきも手紙もだ。去年から年賀状も書かなくなった。自筆の便りに取って代わったのが「メール」だ。文字を「書く行為」ではなく、「活字を拾う」行為だ。活字には型がある。時と場合によって又相手によって、そのタイプを使い分ける。
男っぽい字だな、なるほど女性らしい優しさのある字だね、などという事は全くない。男女問わず選ばれた活字を拾えば、統一のとれた文および文章になる。誠に現代にマッチしたツールと言えよう。味気ないといえば、これほど味気ないものはない。
近頃ではあまり催されないようだが、文豪誰それの展覧会などというものがあった。会場の一部に必ず展示されていたものは、その作家の自筆原稿だった。こんな短い文なのに何度も消したり書いたりを繰り返してるなぁ、段落は結局そうしたのか、意外と下手な字だったなぁ、達筆だなぁ、etc。
上記は一つの例として挙げたのだが、何を言いたいか。人が書いた字は千差万別だという事。上手い下手、読みやすい読みにくい等、その人の「個性」が自ずと字ににじみ出ていた。それが現代では全くと言って良いほど感じ取れないものになってしまった。残念だ。
長い事生きていると、人間は色々なことを見、聞き、体感する。その経験値を又すべてその成長の糧として今の時代につなげているのだとは思うが、それはよく言えばの話で、事実はおかしな事にヒトの思考全てを機械に任せてしまっている事だ。序序にではあるが、人としての思考および行為は失われつつあると感じている。いつまで人は人として生存してられるのだろう?私の様な高齢者が心配しても始まらないが.....。
いずれにせよ、私のような者も今やここまで述べてきた文章を、活字を拾い拾い記してきた。偉そうに。読んで下さった方々どうも有難うございます。たまには自筆のはがきでも出せれば良いですね。