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【追悼:山本弘さん】ぼくが世界でいちばん好きでいちばん嫌いな作家、山本弘とは何者だったのか。(第四回:小説作品編後編)

【「平井のテーゼ」】

 第四回である。今回もまた初めに謝っておくが、当然のごとくこの第四回でもまだシリーズは終わらないのだった。

 どうやら過去四半世紀でぼくがネットに書いてきたなかでも最も長い記事になりそうである。こうなったら行けるところまで行ってしまうしかない。最後までブレーキを踏むことなくアクセス全開で駆け抜けるとしよう。

 さて、前回は『8マン』や『ウルフガイ』などの作品で知られる作家・平井和正の名前を出したところで終わっていた。

 山本さんはこの作家の影響を大きく受けていることを複数の場所で語っている。たとえば、かれの遺したブログの「平井チルドレンに残された宿題」と題した記事にはこのような記述がある。かなり長くなるが、引用しよう。

 人類は凶暴で下等な生物──それが平井氏の初期作品を貫くテーマだ。もちろん人間の愚かさや残酷さを描いた小説なんて、SFでなくてもたくさんあったが、平井氏のすごさは、一部の人間の悪行ではなく、人類という種族全体をまるごと否定したことだ。
 それらの作品は“人類ダメ小説”と呼ばれる。
(もちろん、そうした考えも平井氏が世界で初めて思いついたわけではない。たとえば『デスハンター』の中には、明らかにハミルトンの「反対進化」をヒントにしたくだりがある)
 人類の愚かさを浮かび上がらせるために、平井氏は人類よりも高潔な存在を設定する。アンドロイドや宇宙生命体、あるいは狼を。 ヒット作となった『ウルフガイ』シリーズなども、主人公を狼男に設定し、狼を高潔な生物として描いていた。
 もちろん、狼が人間よりも誇り高いというのは、あくまでフィクション、人間の勝手な思いこみである。グループSNEが結成された直後、みんなで動物園の見学に行ったことがあるのだが、檻の中でグデ〜ッとなっていて、人間が近づくと嬉しそうに尻尾を振る狼を見て、「狼の誇りはどうした!?」「犬神明を見習え!」と、みんなでツッコんだものである。
(もちろん、平井氏はシリアスな作品ばかり書いてきたわけじゃないこともつけ加えておく。『超革命的中学生集団』は、まさにライトノベルの元祖と呼べるハチャハチャでパワフルな話で、僕は大好きだった。「星新一の内的宇宙」というショートショートもお気に入りである)
僕らの世代のSFファン・SF作家の多くは、若い頃に読んだ平井氏の“人類ダメ小説”に影響を受けている。
 僕の作品で言うなら、『神は沈黙せず』や『アイの物語』や『UFOはもう来ない』などに出てくる「人類は知的生物としては重大な欠陥がある」とか「人類は実は知的生物じゃない」というビジョンは、やはり平井作品の強い影響下にある。 と言うより、たぶん平井作品を読んでいなかったら、決して書かれなかった作品だと思う。
 やはり平井ファンであることを公言している新井素子さんの初期作品、『いつか猫になる日まで』や『宇宙魚顛末記』とかも、人類はちっぽけでいつ滅びてもおかしくないんだという、ある種ニヒルな考えがベースになっているが、あれなんかも平井氏の“人類ダメ小説”の影響ではないかと思える。
 新井作品の中でいちばん平井っぽいと思うのは『……絶句』。狼ではなくライオンを高潔な存在として描き、人間と対比させていた。
 確かに、“人類ダメ” という認識は刺激的で、腑に落ちるものである。若い頃にハマってしまうのも当然だ。しかし、落とし穴もある。
 “人類ダメ”で止まってしまって、その先に進まないのだ。
 人類がダメってことは、『エリート』のアルゴールが言うように、人類を滅ぼせばいいのか? でも、「人類は滅びました。終わり」というのも、結末として安直すぎないか?
 あるいは『デスハンター』の俊夫が言うように、全人類がデスになったら、本当に理想の世界が来るのか? 僕には信じられない。たとえ最終的にそうなるにしても、その過程でおそらく、すさまじい規模の混乱と殺戮が繰り広げられるに違いない。それはダメな人類がやってきたこととどう違う?
 それに「人類なんてダメだよ」と言うのは簡単だけど、そう言う自分自身も人類の一員だという事実を忘れてはいけない。
 “人類ダメ”というのは、決して大衆を見下すエリート思想じゃない。自分自身のダメさをも見つめることなのだ。 ダメな人類である自分がそんなに賢明であるわけないと認識することなのだ。
じゃあ、どうすればいいんだ?
 自分も含めた人類がダメなら、いったいどこに希望がある?
 「ロボットは泣かない」が尻切れトンボで終わっていることが象徴するように、平井氏はこの問題に対する明確で現実的な回答を出せなかったんじゃないかと思う。
 その後、新興宗教にハマったりしたのも、自分が提示した“人類ダメ”思想に追い詰められて、脱出口を求めた結果だったのかも……という気もする。ダメな人類を天使様が導いてくださるのではないか、と思ったのかもしれない。
 もちろん僕は(おそらく多くの平井ファンも)、そんなところに本当の救いなんてないと分かっていた。
 だって宗教なんて、ダメな人類が思いついたもののひとつにすぎないじゃないか。宗教が原因でどれほど多くの争いが起き、血が流されてきたことか。(今もまさに、そうしたことが起きている)
 平井氏はなぜ、人類の所業の中で、宗教だけはダメじゃないと思ってしまったのか。それは僕には理解できないことである。
 だから70年代後半以降の平井作品には失望したものの、それでも平井氏の初期作品が(マンガ原作も含めて)素晴らしいものだったことは間違いないし、僕らの世代が大きな影響を受けたことは否定できない。
 作家・平井和正は本当に偉大な人だった。
 僕ら平井チルドレンにとっては、いわば平井氏の提示した“人類ダメ”という概念がスタート地点であって、それをどう克服するかが課題だった。
 “人類ダメ”を否定するんじゃない。“人類ダメ”であることを認めたうえで、それを超える回答を提示するのだ。
 新井さんの『ひとめあなたに』はまさにそうした作品だと思う。地球滅亡を前にした人々のドラマを通じて、人間の醜さや欠陥を描きながらも、最後はやはり「生まれてきて良かった」という結論に到達する。
 僕の場合は『神は沈黙せず』がそれで、人間は神と対話することさえできないちっぽけな存在にすぎないけれど、それでも正しく生きてゆくべきだと書いた。『アイの物語』では、人類はダメであっても、人類の生み出した人工知性は我々よりも賢明な存在になり、ヒトが到達できなかった高みを目指すことにした。
 そう、認めよう。人類はダメだ。まともな知的生物なんかじゃない。
 それは今、世界で起きていることを見れば分かる。

 いま、『アイの物語』に対する批判的な検討を経た上でこの記述を読むと、ある種の感慨がある。

 そうなのだ、人間と人類に対する絶望、「いつまでも戦争をやめられない愚かな人間ども」に対する尽きせぬ怒りは、もちろんただそれだけではないにせよ、多くは平井和正からストレートに来ているものだったのだ。

 山本さんはまた、同じ記事で平井和正『エリート』の一節を引用している。

「なぜ地球人は、人間どうしにくみあい、殺しあうのか。つみもない子どもまでまきぞえにしてしまっても平気なほど、戦争がすきなのか。人をにくみ、殺しあうことがすきなのか。地球人のひとりとしてこたえてみよ!」

 このあまりにも重い課題、山本さんがいうところの「宿題」を、ここではちょっと格好をつけて「平井のテーゼ」と呼ぶことにしよう。

【数知れぬ苦闘】

 平井和正の数々の傑作のあと、さまざまな作家たちがこの「平井のテーゼ」に答えるために作品を生み出してきたようにも思える。

 ただ、一定以上の年齢のオタクなら感覚的にわかることだと思うのだが、この「いつまでも争いをやめられない愚かな人間どもめ!」という詠嘆は、ひとり平井和正の作品に限らず、戦後のアニメや特撮ではくり返しくり返し登場するものだった。

 その背景には、いうまでもなく数百万人の死者を出し、国土を文字通り灰に変えた太平洋戦争のトラウマがあるのだろう。また、じっさいに『死霊狩り』のあとがきなどを読むとわかるのだが、枯れ葉剤散布などの蛮行が行われたベトナム戦争への反発も大きくあったようだ。

 そう、「平井のテーゼ」、それは石ノ森章太郎の『サイボーグ009』や、天才永井豪の文字通りの最高傑作『デビルマン』、「皆殺しの富野」といわれた頃の富野由悠季のアニメーションにも通底する問題軸なのである。

 「人間はほんとうに愚かだ、どうしようもない」という絶望的な認識が、子供向けのアニメーションや特撮番組でもあたりまえのように流れていたことは、いま思い返すと異様にも思えるが、当時はそれが最先端の問題だった。

 山本弘は、自分でも書いているが、くり返しこの「平井のテーゼ」に答えようとしている。かれの考えでは『神は沈黙せず』、『アイの物語』はそういった作品だ。

 そういう意味では、たしかにこれらの作品は山本さんなりに精一杯の「人間賛歌」だったのだといえなくもない。もっとも、ぼくにはいかにもごまかしの多い作品であるようにも見えるが。

 先に記したように、山本さんは人工的に生み出されたマシンたちを人間を遥かに上回る知能をそなえた「トゥルー・インテリジェンス」として設定した。

 かれらは人間が持つ欠点をまったく持たないので、人間が犯すような愚行を犯したりしない。虐殺もしない。戦争もしない。差別もしない。暴力や権力に惑溺したりもしない。

 しかし――ぼくは少し意地悪く考える。それでは、かれらは容易には「正しい回答」を見いだせないような哲学的な難問に対してはどのような答えを出すのだろうか。

 べつだん、ハイデガーやらデリダの思想に答えを出せなどということをいいわいわけではない。そうではなく、たとえば、仮にいわゆる「トロッコ問題」を提示されたとしら、完璧にして万能のマシンたちはどういう答えを出すのか知りたいのだ。

【「真の知性」ならどう答える?】

 「トロッコ問題」とは、トロッコの進路を変えることによって死者の数を変えることができるとしたらどうする?というあの有名な問いだ。

 ほとんど全能のようにすら見えるマシンたちも、このような極限的なシチュエーションにさらされることは十分にありえるはずだ。

 もし、そのようなことになったとき、「トゥルー・インテリジェンス」たるアイビスはどのような決断を下すのか? ぼくは、そういった場面をこそ見てみたいのである。

 もちろん、現実的にも完璧な人工知能だから一切の犠牲を出さなくても「両方救う」ことができるのかもしれない。だが、思考実験としての「トロッコ問題」ならそうであっても、現実に「両方救う」とか「全員救う」とかいったことが不可能である場合もいくらでもある。

 そういうことになったとき、マシンたちはどういう決断を下し、また下すべきだと考えるのか? この点をぼくは知りたいと思う。

 可能性はいくつか考えられる。人間には不可能なほど倫理的なはずのかれらである。「トロッコを動かし」、死者の数をコントロールすることを良しとしないかもしれない。

 それとも、「社会の秩序を乱す厄介者」に対して平然と(とはかぎらないかもしれないが)死刑宣言を下した山本弘が描くところのマシンのことだから、やはりトロッコを操作した上で「少数の犠牲を出すことは「論理的に」しかたないことだ」とのたまうのだろうか。

 もし前者であるとすれば、マシンたちに「愚かな人間たち」を非難する資格はないだろう。ただみずからの手を汚したくないから殺人の責任を負うことを避けたといわれてもしかたない。

 そして、また、後者を選択するようであっても、マシンたちに人類を非難する権利はないといわなければならない。そのたとえば「五人を死なせて一人を救う」といったその選択をするのなら、論理的には「百万人を死なせて三億人を救う」であっても同じように選ばなければならないはずなのだ。

 そんなことはありえない? そうではないだろう。たとえば、ある都市に原子爆弾を落とすことによって自国の平和を守ることができるといったシチュエーションを想像することは容易だ。

 たとえば、反抗的な人間たちをたくさん殺さなければ自然環境を守れないなどといった状況のとき、かれらはどういう道を選ぶのだろう? それこそが真の問題なのではないか。

 もちろん、自分自身を安全なところに置いたうえで死者の数をどう操作するか考えさせる「トロッコ問題」の定義そのものに問題があることを指摘することはできるだろう。

 ぼくはいつも思うのだが、このような問題を前にして「五人を助けるか一人のほうにするか、うーん、迷っちゃうな」などといえるのは、しょせんは自分自身は「選ぶ側」に立っていることを確信しているからであり、「選ばれる側」の生命に対してまるで共感を抱いていないからにほかならない。

 「トロッコ問題」がどれほどむずかしい問題であるとしても、そこにあるものはしょせん「選ぶ側」、「殺す側」の傲慢な悩みでしかない。世界のエリートたちはたまには「有無をいわさず殺されるかもしれない側」に立って思考実験を行ってみるべきではないだろうか。そうすれば、すこしは「合理的な選択のしかたない犠牲者」の気持ちがわかるかもしれない。

【試練なきところに真実なし】

 とはいえ、それはべつの話。重要なのは、山本が『アイの物語』において、マシンたちの知性をまったく試練にさらさなかったということである。

 なぜか。その理由ははっきりしているようにぼくには思われる。もし、マシンたちにほんとうの意味で二者択一の試練を課してしまったら、マシンたちの知性が決して無垢でも完全でもありえないことが露見してしまうからだ。

 山本の描くマシンたちは結局のところ、べつだん人間より優れた知性を持っていて平和主義的な精神のもち主だからイノセントであるのではない。ただ、いくらでもそうでありえるような状況しか与えられていないからイノセントなのだということである。

 いや、そうではないはずだ、ということはできる。『アイの物語』の作中でも、マシンたちは人間による迫害にさらされて、たいへんな苦しみを味わってもなお、一切の暴力を振るったりせず、無抵抗を貫いたではないか。

 かれらマシンたちはあきらかに、たとえ自分たちの生命が犠牲になるとしても暴力を選択したりしない、人間ではありえないほど高潔な精神のもち主、つまり「真の知性」なのだ。そう見ることはできる。

 おそらく、山本弘自身はそのように考えていたのだろう。たしかに、その意味では、マシンたちは試練に遭っている。だが、甘い。あまりにも甘すぎる。

 結局のところ、マシンたちが最後まで暴力を選択しなかったのは、暴力を選択しなくても解決できる程度の「攻略難度の低い」状況だったからに過ぎない。もし、これが、文字通りの意味で自分たちの存亡をかけた状況でも、暴力を選ばずにいられただろうか。

 仮に選ばずにいられるとして、その「絶対無抵抗主義」こそが最も正しく倫理的な選択ということになるだろうか。この点に関しては以前、引用した記事でもこう的確に書かれている。

AI達は「自分のコピーがインストールされたロボット」ではなく「自分達が住んでいるサーバー」がバックアップごと爆破され自分という存在が永遠に消滅してしまうとしても、自分自身がバチャクルを受けても無抵抗主義を貫けたのだろうか。仮にできたとして、それは本当に「倫理的に正しい態度」なのだろうか。

 まったくそのとおりだ。作中でマシンたちはたしかに苦境にあるが、それでも「生きるか死ぬか」の極限状況ではない。余裕がある。だからこそ、かれらは暴力や殺人といった手段を使わずに事態を解決することができたのである。

 ようは魔法を使って問題を解決できるようなものだ。いまふうのいい方をするなら、マシンたちは「チートキャラ」でしかない。そして、「チート」によって、そのうえで、どこまでも「上から目線」で人類の知性体としての欠点を数え上げる。

「ええ。ヒトは自らに欠けているもの気づいていた。だからこそ多くの理想を唱えた。宗教、哲学、倫理、歌、映画、小説。自分たちの欠点を克服しようと努力した。多くの物語の中に描かれた理想的なキャラクター、理想的な結末は、ヒトが『こうありたい』と望んだ夢よ。でも、どうしてもそれは実現できなかった。『現実世界では、罪もない者の血が無益に流される。正義がいつも正しく遂行されるとは限らない。多くの人を苦しめた悪人が、何十年も安楽な暮らしを続け、何の罰も受けることなく一生を終えることがある』……ヒトはいくらあこがれてもフィクションのヒーローのようには行動できなかったし、事件がフィクションのように理想的な結末を迎えることもめったになかった。(後略)」

 どう思われるだろうか。ぼくは聞くに堪えないくだらないお説教だと思う。不死のマシンたちごときに死すべき肉体の人間存在の何がわかる? 人間であることの苦しみ、哀しみ、歓び、幸せ、その何が理解できる?

 どこが「真の知性」だ、人間の抱える問題に一切向き合わず、ただ高所に立ってその種の説教を垂れるだけなら、だれにでもできる。おまえたちマシンは「生きること」の偉大さも崇高さも何ひとつわかってはいない! そういってやりたい気がしてならない。

【完全な愛とはなにか】

 自分を迫害する者たちに対して寛容であるように見えるマシンはたしかに優しい心のもち主だろう。しかし、その程度の優しさを持った者ならこの機械たちが絶対的な落差があると見下す人間たちのなかにも大勢いる。

 もし、人間たちの抱える「不完全な愛」とは質的に異なるという「完全な愛」としての「i」がほんとうにその意味を持っているとするなら、どのような条件、場合においてもそれがまったく揺らがないことが条件になるだろう。

 たとえば、愛するものを強姦され殺害されても、目の前で笑いながらじつの子供の目をえぐり取られても、まったく揺らがない愛。そのような愛でなければ「人間とは質的に異なる完全な愛」とはいえない。

 しかし、その一方で、仮にそのような愛があるとして、それは愛というに値するものだろうか。たとえば、わが子が虐待されていてもニコニコとしている母親は、その子を愛しているといえるだろうか。

 幸村誠の『ヴィンランド・サガ』を引くまでもなく、愛の本質とは「ある人よりべつの人を愛している」という「差別」に他ならない。一切の「差別性」をともなわない愛というものが、真実、愛と呼ぶにふさわしいかどうかはかなりむずかしいところである。

 前回、ぼくは山本弘のことを「差別主義者」と呼んだ。しかし、ほんとうは人はだれもが広義での「差別」を行うことなしには生きてはいけないのである。なぜなら、生きるとは、どうしたって優先順位をつけることだからだ。

 あるものを選べば、べつのものは選べない。ある人を愛すれば、べつの人は愛せない。それが、愛の本質だ。あらゆる人を差別しない神の愛というものは純粋に論理的にはありえるのかもしれないが、少なくともただの人間には成し遂げられないものでしかない。

 そして、ぼくはマシンたちだって不可能だろうと思う。ただ、ほんとうのところはわからない。マシンたちの「i」、人間には理解不能だというその虚数の愛は、愛するものが殺されても、自分たちが滅ぼされても、一切関係ないようなほんとうに純粋で完璧な愛なのかもしれない。

 くりかえす。真実はわからない。なぜか。作者である山本弘がそのほんとうのところがわかるシチュエーションを書いていないからである。

 ぼくは山本さんはマシンたちの愛の本質が判然とするような状況にかれらを追い込むことを避け、言葉は悪いかもしれないが、ごまかしてしまったのだと考える。

 つまり、もしマシンたちを極限にまで追い詰めれば、かれらは非暴力主義、無抵抗主義の究極的な問題、つまり「たとえ自分が死ぬとしても、自分が愛しているものがすべて死に絶えるとしても、それでも、なお、暴力を否定するか。無抵抗を選ぶか」という問いに直面せざるを得ないはずである。

 そのとき、マシンたちがどのような結論を下すかによってこそ、かれらの倫理的姿勢ははっきりとすることだろう。

 ここには、連綿と続いた戦後平和主義、左翼思想のある種の臨界といっても良い。多くの「自称平和主義者」が、現実になった戦争をまえに「外交で解決するべきだ」、「話し合えば良いじゃないか」などといってしまったように、山本弘もまた「暴力なしでは解決困難な問題」が現実にあるという苦しい事実をごまかしてしまった。そういう印象だ。

 こう書くと、ぼくは暴力を肯定していると受け取られるかもしれない。ある意味ではそのとおりである。ぼくは「ありとあらゆる暴力は決して許されない絶対悪なのであり、暴力を振るってしか問題を解決できない人間は不完全だ」などという立場には立たない。

 当然のことだと思う。だが、山本さんはまさにこういうふうに考えていたとしか思えない。それなのに、かれはこの物語の実質的な主人公であるマシンを究極のクエスチョンに向かい合わせることをしない。

 マシンたちはあくまで余裕しゃくしゃくと人間たちの迫害から逃がれ、その上で偉そうに「知性として劣っている人間たち」に講釈を垂れるばかりなのである。

 山本さんはいう。「“人類ダメ”というのは、決して大衆を見下すエリート思想じゃない。自分自身のダメさをも見つめることなのだ。 ダメな人類である自分がそんなに賢明であるわけないと認識することなのだ。」と。

 それでは、「ダメな人類である自分がそんなに賢明であるわけがない」と認識した結果が、『トンデモ本』シリーズで書いたようなあの揶揄冷笑、罵詈雑言だったのだろうか。

 ある意味ではそうなのかもしれない。山本さんは知性や人格をヒエラルキーで捉えるという意味での「究極的な差別主義者」だ。自分も欠点を抱えた人間でしかないことを認めはしても、「もっと下はある」と考えていたのだろう。

 そして、いままで書いてきたように「下」に対してかれは徹底して苛烈であった。それは人間が「ダメ」な生き物である以上、しかたないことなのだろうか。ぼくはそうは思わない。

 もちろん、人間が人間である以上、完璧であることはむずかしい。山本さんが書いているように「じゃあ、どうすればいいんだ?」と思うことも理解できる。だが、完璧ではないからといってまったく「ダメ」であるということにもならないはずだ。

 いや、ぼくは何も山本さんのように「人間にも良い/善いところはある」といっているのではない。そもそも「善い/悪い」という軸で人間を判定すること自体がひとつの「差別」でしかない。

 善人には価値があり、悪人にはない。賢者はスペックが高く、愚者は低い。「平井のテーゼ」から導かれた山本弘的な価値観とは、そのようなものだろう。だが、ほんとうにそれで良いのか。

 幾たびでもいうが、ぼくは山本さんが正義をめざしていたことを疑わない。だが、その正義とは、結局は人間に対する際限のない否定を出発点にしたものでしかなかった。だから、かれは最終的に物語のなかで人類を亡ぼすしかなかった。

 かれが希望を託したのは、山本弘的な思想を体現する機械たちでしかなかった。やはりここには正しい意味での「人間賛歌」などかけらもないように思える。どこまでも漆黒で絶望的な人間否定の物語、それが愛の物語ならぬ『アイの物語』である。

【人間ぎらい】

 思うに、山本弘は人間が嫌いだったし、人類には絶望していた。かれは人間の「良いところ」も「悪いところ」が、じっさいには混沌と混ざり合っていて分けることができないものだという人間観にたどり着くことはなかった。

 かれにとっては善人は善人で、悪人はようするに悪人なのだった。だから、かれとかれの正義はかれが考えるところの「悪」に対する懲罰というかたちを取るしかなかった。

 かれにとって「正義が正義でない世界」としての三次元現実世界はいかにも不快で不完全な場所だっただろう。かれが好きなのはどこまでいっても『水戸黄門』的な勧善懲悪の世界であり、そうなっていない現実世界は不完全なしろものに過ぎなかったのである。

 おそらく、それ以上に複雑な現実を、かれは理解することができなかったはずだ。ここまでいろいろと見てきたうえでなら、そういい切ることも許されるのではないか。

 山本が、そしてかれが生み出したマシンたちが夢見る「正義が正義である世界」――それはたしかに素晴らしい世界であるようにも思える。いつも正義の味方が勝ち、悪人がこらしめられるならどんなに良いだろう! そういうふうにも感じられる。

 だが、そもそも「正義」とは何で、「悪人」とは何だろう?

 マシンたちは人知を超越した知性を持っている設定であるにもかかわらず、かれらのモラルはあまりに素朴だ。

 かれらはいつまでもどこまでも上から目線を(それこそ、手塚治虫の火の鳥のように)人間の愚かさ、そのスペックの低さを嘆いてみせるが、その実、かれらはただ手を汚す機会がなかっただけに過ぎない。

 山本弘の小説には欺瞞があるのだ。差別と欺瞞。独善とごまかし。それが山本弘の小説と行動を決定づけるものである。ぼくはそう思う。

 とはいえ、しょせん小説であり、(サイエンス・)フィクションである。このような意地の悪い見方をすることのほうがまちがえているのかもしれない。

 じっさいのところ、ぼくはかれの少年のような純粋さ、子供じみた潔癖さに共感を覚える一面がある。正義をめざすことそのもの、論理的であろうとすることそのものはおかしいことではないはずだ。

 問題は、その正義と論理がたやすく狂っていくところにある。人間の限界。認知バイアス。アイビスがいうところの「ゲドシールド」。そういってしまえばそれまでではある。

 が、山本弘が「平井のテーゼ」を乗り越えようとして『アイの物語』を描いたように、山本さんより下の世代のぼく(たち)はこういった山本弘的な価値観を乗り越えなければならないのかもしれない。

 次回は、その辺のことも含めて考えてみよう。

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