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なぜ、ただのアニメやゲームが人を救うのか、宗教的に説明するよ。

 電子書籍『ヲタスピ』に収録した内容の序章および第一章です。


 序章

 いま、この本を読まれているあなたにはだれか熱く応援している「推し」がいるでしょうか。そして、その「推し」とのあいだに、何か神聖ともいいたいような絆を感じたことはあるでしょうか。

 本書『ヲタスピ』上下巻は、そのサブタイトルからわかる通り、オタク文化の「スピリチュアル」な一面について綴った本です。そういうわけで、推しに「聖なるもの」を見いだしたことがある人は、まさに本書の想定読者なのです。

 ただ、あるいはもしかしたらスピリチュアルという言葉を使うと、ただそれだけで怪しいとかいかがわしいと思われてしまうかもしれません。

 しかし、スピリチュアルとは本来、かなり価値中立的な言葉で、特定の文化とひもづいているわけではないのです。たとえば、医療業界でもしばしば「スピリチュアルケア」、「スピリチュアルペイン」といった概念が使用されています。

 この場合の「スピリチュアル」は「霊性」とか「たましい」などと翻訳されるのですが、明確な対応日本語は存在しません。日本語ではきわめて捉えにくい概念なのです。

 つまり、江原啓之的な世界ばかりがスピリチュアルではないということ。それはスピリチュアルの全体ではなく一部であり、それもかなりねじ曲がった一部なのです。

 本書ではそういった意味での「スピリチュアル」も扱いますが、それ以外の意味での「スピリチュアル」についても記述します。

 本書でいうところの「スピリチュアル」とは、何らかの超自然的な存在にふれたときの感触を意味するものと思ってほしいです。いかにもあいまいですが、そのようにしか定義できません。

 また、「スピリチュアルペイン」とは、死をまえにした人が抱く、自分の存在がひき裂かれるような痛み、苦しみを意味しています。

 広い意味での「スピリチュアルペイン」は本書上下巻を通したテーマであるといって良いでしょう。本書はオタク文化がそういった「存在の痛み」をどう癒やすかについて記したつもりです。

 オタク文化の宗教性、あるいはオタク文化と宗教の親和性については、すでに宗教学のほうでも話題になっていて、専門的な本が何冊か出ています。

 もちろん、本書はそれらの本のような学術的な内容ではなく、あくまで軽快に、楽しく、そしてなるべくわかりやすくオタク文化と聖なるものの親和性について語ってみました。

 電子書籍として発表された本書がひとりでも多くの読者に届くことを祈っています。

 ちなみに本書はまったく専門的な内容ではありませんが、一応は先行する宗教学の概念を引用する場合もあります。たとえば、20世紀最大といわれる天才的な宗教学者ミルチャ・エリアーデ。

 わたしはエリアーデが好きで、十分に理解できているとはいえないかもしれないにしろ、昔から何か惹かれるものを感じてきました。

 本書は一部で、そのエリアーデの宗教学が前提となっているところがあります。

 たとえば、エリアーデは人間の宗教存在としての一面を捉え、宗教的人間(ホモ・レリギオスス)と呼びました。

 そして、どれほど世俗化が進み、人々が宗教から離れていっても、完全にホモ・レリギオススの本質が変わってしまうことはないとしたのです。

 わたしはそのエリアーデの言葉に共感します。科学がどれほど進んだとしても、人の本質が「宗教的」である以上、宗教がなくなることも「スピリチュアル」が語られなくなることもないと思うのです。

 しかし、これはいまから本書全体を通して語っていくことなのですが、伝統宗教のリアリティはここ最近、社会発展のなかで急速に薄らいでいます。

 「宗教的なるもの」に対する需要こそ大きくあるにもかかわらず、伝統宗教が必ずしもそれを提供できていない現実があるように思われるわけです。

 そこで、広義の「スピリチュアリティ」の文化が興隆します。いま、一般に「スピリチュアル」といえば、まさに江原啓之に代表されるような奇異な文化を意味することでしょう。

 このような文化は学術的には「新霊性文化」と呼ばれます。本書はこの新霊性文化について書いた本ではありませんが、それに接近する領域を扱っているので、本文中でいくらか触れています。

 「スピリチュアル」に興味があって、そういうものをたくさん知っているというタイプの人もご一読いただければ幸いです。

 人間が人間である限り、「聖なるもの」への渇仰、「宗教的なもの」への欲望はなくならないでしょう。

 かつて、素朴な科学と進歩への信奉が大きな夢を見せたこともあったように思いますが、すでにその季節は去って久しい。わたしたちの時代は、リオタールのいう「大きな物語」をなくして半世紀も経っている、そういう時代です。

 たくさんの人々が「たましい」のレベルで飢え、自分の孤独を癒やしてくれる「何か」を求めています。

 その「何か」を、たとえば恋愛や家族に見いだせた人はそれで良いでしょう。うまくすれば、十分に幸福で満たされた人生を送れるものと思われます。

 しかし、「たましい」が何かより高次の、形而上的ともいえるようなものを求める人もあるのです。そのような人にとって、重要なのはスピリチュアルな充足であり、単なる肉体的な欲望の満足だけでは足りません。

 しかし、いまの時代、いったいこの「たましいの飢え」をどう満たせば良いでしょう?

 あやしげなカルト宗教団体などに入ってしまえばただ搾取されて終わることはわかりきっているし、そうかといってふつうであたりまえの業界はあなたの「スピリチュアリティ」を満たしてはくれないことでしょう。

 本書は、ひとりのオタクとして、いわゆる「推し」を持つことで、その「スピリチュアリティ」が満たされることがあると語っていきます。

 タイトルの『ヲタスピ』とは、だいたいそのような含意です。

 ところで、エリア―デの造語にヒエロファニーという言葉があります。聖体示現などと翻訳されるもので、ブリタニア国際大百科事典によると、このような意味です。

「聖なるものの現れ。聖体示現,聖化現象,神聖顕現などとも訳される。ギリシア語の神聖 hierosと現れる phainomaiから成る合成語。宗教学者 M.エリアーデが,諸宗教の現象形態を説明するために用いた基本的概念の一つ。宗教現象を非合理的側面からばかりでなく,その全体において,また進化論的評価の観点とは異なる立場からとらえようとするエリアーデの方法的態度を示した概念といえる。聖なるものの顕現を意味すると同時に,直接的には知覚できない聖なるものが表わされる媒体をもさす。たとえば,天,空,太陽,月,地,石,動植物,寺院,神殿,観念,道徳律,神話,儀礼,象徴,神,人など。したがって,ヒエロファニーには,実在と非実在,聖と俗の逆説的合一が認められる。」

 これだけではわかりづらいかもしれませんが、つまり、何らかの「聖なるもの」が地上においてあらわれるときの物体を示しているわけです。

 それは単なる実在する物体であり、同時に非実在の神聖さそのものです。

 本書では、この「ヒエロファニー」という言葉が何度も出てくるはずなので、ここで意味を憶えておいてほしいと思います。

 さあ、語りはじめましょう。猥雑を究めるオタクたちの文化と、地上を超えて遥か天上にまで達する聖なるもの――その両者をひとつのものとみなすことはむずかしいかもしれませんが、本書を読み終わる頃には、納得がいっているものと信じています。

 本書はその意味で、あなたの「たましい」の冒険の書です。

第一章「オタク・スピリチュアリティとは何か?」

 話をしているときに
 同じ景色を見ているときに
 悩み励まし合うときに
 懐かしさを憶える人がいる
 今日出逢ったばかりでも
 感じる事さえある時
 信じられるんだ僕らが
 生まれ変わることを 槇原敬之「THE CODE~暗号~」

①「オタク文化と宗教のアフィニティ」

 たとえば、そう、何気なく眺めていた報道番組で、何の罪もない子供が亡くなる事件が放送されていたとき。ふと、何ともいえず哀しく、薄ら寒い気持ちにならないでしょうか。

 その子は大人から虐待を受けていたのかもしれませんし、純粋に不幸な事故で落命しただけかもしれません。いずれにしろ、かれ/彼女は、一見して平和で安全なこの社会に開いた「虚無の穴」へ墜落してしまったのです。

 「虚無」は社会の至るところに穴を開けています。そのとき、あなたも、その報道を通しその深淵をほんの少しのぞき込んだといって良いでしょう。

 戦慄の体験。

 とはいえ、あなたはあまり長い間その記憶を引きずらないに違いありません。

 その出来事はきわめて痛ましいけれど、あくまで見知らぬ子供のことに過ぎませんし、いつまでも気にかけるには人生はあまりに忙しないこともたしか。ひとまずは、そういえるでしょう。

 しかし、もしそれが遠いどこかのことではなく、自分自身の息子や娘、あるいは少なくとも良く知っている子供のことであったら?

 そのとき、あなたは「虚無」に魅入られ、その無窮の「落とし穴」をのぞくことをやめられなくなるかもしれません。

 その穴は限りなく暗く深く、じっとその深みを眺めていると、快適で豊饒なこの社会の一切の「意味」や「意義」がまるで無価値に思われて来るのです。

 「虚無」と向き合うとはそういうこと。そして、もしかしたら、人はそのようなときこそ「生きる意味」を求め宗教に誘われるのかもしれません。

 宗教。

 現代日本において、その評判は必ずしもかんばしくありません。ちょうどいま、元首相銃撃暗殺事件に関連しある宗教団体が問題視されています。

 宗教とはただひたすらに怪しく、うさん臭く、おぞましい、理不尽で蒙昧な教義の集積であるに過ぎない。

 そのような「偏見」を抱いている人すら少なくないでしょう。また、それが完全に間違えているともいえないのです。

 そのためか、どうか、世界的にも宗教人口は減少の一途をたどっています。

 しばしば「日本人は無宗教だ」といわれますが、それは海外、特に欧米の国々は日本とは違ってキリスト教の長い伝統があり、いまでも信仰を集めているという前提があっての話でしょう。

 それなのに、じっさいにはそのキリスト教の伝統も大きく揺らいでいるのです。

 そうはいっても減っているのはキリスト教人口だけで、たとえばイスラムの信徒などは増加しているのではないかという人もあることでしょう。

 しかし、近年はイスラム教人口が多数を占めるアラブですら宗教人口は減少しつづけているともいいます。

 あたりまえのことかもしれません。

 キリスト教にしろ、仏教にしろ、あるいは相対的に新しいイスラムにしても、1000年から2000年以上もまえに構築された教理です。

 現代社会に合致していませんし、常識的な科学技術とも矛盾します。いったんその教義に疑問を抱いてしまえば、いつまでも無心に信じつづけることができなくとも不思議ではありません。

 しかし、だからといって、これから先、宗教の蒙昧は晴れ、ひたすらに輝かしい科学と理性の時代がやって来るのかというと、その展望を信じることはできません。

 どれほど科学が万能を究めようと「虚無の穴」は空虚に開きつづけるに違いないのです。人類社会はここ何百年も経済的に豊かになりつづけていますが、格差は開くばかりですし、不条理なこともなくなるようには思われません。

 つまり、たしかにわたしたちは狭義の宗教を必要としなくなりつつあるものの、一方で「宗教的なるもの」の需要は絶えないのです。

 それなら、いったい何が伝統宗教に代わりその需要を満たすのか。現代日本を無心に眺めてみましょう。

 たとえば「スピリチュアル」はどうでしょうか。「スピリチュアル」とは天使や精霊、宇宙人など超自然的な存在を前提とした文化で「オカルト」と隣接しつつ微妙に異なっています。

 暗く怪しい「オカルト」に対し「スピリチュアル」は一見あかるいのです。

 もっとも、非科学的な文化には違いありませんから、人によっては宗教と同じくらいうさんくさく捉えているでしょう。

 わたしも頭から信じ込むわけではありませんが、そういった「非科学的」な価値を一概に否定し切ってしまう気にもなれません。

 科学を信頼してはいますが、それが「虚無」に対し答えを用意していないことも知っているからです。

 人は生まれるまえにどのような存在だったのか? 死んでしまったらどうなるのか? なぜ他のだれかではなく「この自分」が苦しまなければならないのか?

 そういった「究極の問い」に科学は答えてくれません。それは科学の不備ではなく、ただその役割ではないのです。

 もちろん「スピリチュアル」がその「問い」に対し、どれほど深い答えを用意しているわけでもないでしょう。だが、とりあえず一時の慰めにはなります。

 それはこの世の摂理そのものでもある「虚無の落とし穴」をふさいでしまうことはできないにせよ、一とき、目を逸らすことを助けてはくれるのです。

 あるいは「自己啓発」。

 自分自身を改善し成長させてきびしい競争社会を生き抜いていこうとする自己啓発の精神は、いまや広く社会的に普及し、いわゆる自己啓発書はしばしばベストセラーとなります。

 自己啓発にばかり熱心な人たちは「意識高い系」と揶揄されることもありますが、それも自己啓発がどこか宗教と近いことに理由があるのでしょう。

 そして、もうひとつ、わたしが宗教とアフィニティ(親和性)を持つものとして取り上げたいのが、いわゆるオタクの文化です。

 マンガ、アニメ、アイドル、ボーカロイド、Vtuberなど、現代社会において、広い意味でのオタク文化は「スピリチュアル」や「自己啓発」以上に多くの人を支えています。

 それは一般的には単なる娯楽、エンターテインメント、ポップカルチャーの一種に過ぎないとみなされています。

 しかし、ひとりのオタクとしていうなら、オタク文化にはたしかに「宗教的なるもの」がある。

 一見すると猥雑で享楽的に見える文化ですが、それぞれのファンは何らかの「感動」を通じファンになっているのですし、ときには作品を通して「聖なるもの」を感じ取っています。

 数年前、日本女子大学で「オタクにとって聖なるものとは何か」というワークショップが開かれました。

 未見なのでその内容はわかりませんが、担当者のブログに中身の一端が残されています。

現代日本のオタク文化のなかに、宗教的なものを見出すのはたやすい。オタクたち自身、いくらか自嘲気味に「ネタとして」、しかし内心ではかなりの真剣さをもって「ベタに」、みずからの行動や世界観を宗教用語であらわすことがある。その行動様式もまた、自覚的であろうとなかろうと、しばしば「まるで宗教のようだ」。例えば、原始宗教を思いおこさせる奇天烈な衣装、古代の崇拝(カルト)とみまがう踊りや礼拝、集団の祈りのごとき形式化された絶唱など。オタク文化を彩る作品群(マンガ、アニメ、ゲーム、ラノベなど)にも、宗教的な表象が満ちあふれている。伝統宗教の場や象徴がそっくりそのまま採用されていることもあれば、元の文脈から引きはがされた有形無形の断片が作品に意味をあたえていることもある。また、オタク作品群につねにあらわれる超常的で霊的な存在や力は、「宗教」という固い表現になじまず、むしろ、「オカルト」「スピリチュアル」「俗信」といった表現の方がしっくりくることも多い。制作者と作品とオタクとが、こうした世界観において「何か」を交換しあい、多彩な文化をきずきあげているのだ。めくるめく伝統と霊性のオタク現象――これをまえに、宗教研究には、重大な問いが突きつけられる。オタク文化はどうしてこうも宗教に「類似している」のだろうか。「共有されるなにか」があってこその類似のはずだが、それはなにか。はたして、オタク文化とは伝統的な宗教と「同じなにか」なのだろうか。それは「偶像崇拝」「多神教」「異教」と何が異なるのだろうか。あるいはまた、「宗教」という言葉をさけて、「スピリチュアル」「霊的」「俗信的」「空想的」などの言葉を使えば、それはうまく説明されるのだろうか。」

 この「問い」に対し、宗教学の研究者ではないわたしは的確な答えを用意することはできそうにありません。ただ、この問題に「オタクの側から」意見を述べることはできます。本書はそういう性格の本です。

 それでは、語りはじめましょう。混沌としたオタク文化のなかに神聖なる何かを探しだすのです。

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