卑屈はどこからやってくるのか
ここ3年も鬱だった氣がする。
ここ数日は妙に頭がスッキリしている。裏を返せば、それまでずっとモヤがかかっていたということだ。
変だとは思っていた。あれほどできていた読書ができなくなっていたり、朝が弱く、お昼には体が重だるくなっていたり、無性にエンタメ系のYouTubeを時間の許す限り見ていたり、3年前の生活とはまるで違った日々を送っていた。
今はすっかり、3年前の生活に戻りつつある。むしろ、3年の経験を積んだ分、よりマシな生活になっただろうか。ともかく、氣持ちが軽い。決断、行動が早い、多少寝不足でもガンガンに動ける。
ぼくはいつからおかしくなったのか。
おそらく、あの日だ。
がむしゃらに生きていると、案外心の痛みに氣づかないものだ。
平氣なようで実は日々受けている。それに目を向けた瞬間から自分は崩れ始めるのだろう。
仕事の内容とか、生活の仕方が問題なのではない。人間社会である以上、問題は人間関係が元。
一度崩れたら世界の見方が変わる。最初は、急に敵が増えたような感覚。日を追うごとにその感覚が膨らみ、氣がつけば大勢の敵に囲まれているような氣分になる。
そんな世界の中では何をするのも億劫で、いちいち氣を遣ってしまう。それは、顔馴染みの間柄でもだ。
おかげで人に触れるときは随分と慎重になった。
今の自分になれて良かったと思っているし、今まで傷ついてきた出来事は、そのために必要な経験だったのだと思う。
そう考えると、罵声中傷が飛び交う現代も、悪いものではないのかもしれない。
もちろん、全員漏れなく優しい世界がいちばんなことに越したことはないと思うのだが、きっとそうなると種が繁栄しないから、さまざまな人がいるのだろう。
ひとまず、楽になった。
誇れるものができたから。
もうすぐ、心から描きたくて描いた作品が本になる。
このことが唯一の救いになった。
誰からどんな言葉を貰っても救われなかった自分が、この鬱期間に描いた自分の作品に救われた。
この作品をカタチにするということが、ぼくがぼくであることを保つために必要なことだったのだ。
人生とは不思議である。
「自分を救えるのは自分だけ」の、一つのいい例ではないだろうか。
向こう3年は大丈夫な氣がする。
こうして自分のことを包みなく綴れているのが何よりの証拠だ。
けれどまた、氣づかないうちに受けるのだろう。
平氣なうちに、動けるだけ動かねばなるまい。散々苦しんで、歩みを遅めてきたのだから。
その時間を取り戻すが如く、今は走る。