ちょうどいい距離感が孤独を埋める
SNSの向こうに友がいる。
会ったことはない。
投稿にコメントを、互いにつけてやり取りしている、ただそれだけ。
孤独でいると、SNSの繋がりに満たされる。
現実の人付き合いが苦手なせいか、どうも、あまり素性の知らない相手とやり取りしている方が落ち着くときがあるのである。
彼もまた、絵を描く。
私と同じく、絵を描いて、その作画の様子を発信している。
私と違うのは、彼は描いている手元だけでなく、自分の顔も姿も映して様子を発信していること。
名をrein。
顔立ちは日系だが、発信は英語でしていて、プロフィール欄には目立った情報がなく、素性はあまりわからない。
いつからか、互いに投稿に反応するようになった。
私の絵を好いてくれているようだし、私も彼の描く絵に惹かれている。
これはコメントをし合っているうちに発覚した事実だが、
奇遇にも、私と同い年らしい。
イチSNS上には何千万という人たちがいて、そんな中で、仮にコメントでやり取りしあっている程度だとしても、関係が続いている時点でご縁を感じる。
〝運命〟というのは大袈裟だが、でもそんな感じ。
あまり素性は知らずとも、心を満たしてくれる存在になっていることは間違いがないのである。
距離が近すぎるとしんどくなる。
近づけば近づくほど、リスクが高まっていくから。
傷つくリスク、傷つけてしまうリスク、
その傷を一生背負ってしまうリスク、
人間関係は難しい。人によってちょうどいい距離感も違うから。
どの程度まで踏み込んで平氣なのか、
なんと言葉をかければよいのか、
なにを言ってはいけないのか、
そんなことを考えているうちに、人と話すのが面倒になって、やがては独りを好むようになってしまう。
けれど、一人では生きていくことができないから、
人間社会と孤独の狭間で、言葉にもがき苦しみながら、なんとか今を生きているのである。
そんな私にとってはやっぱり、SNSで知り合った程度の距離感がちょうどいい。
当たり障りない会話を続けるだけである程度の関係が成立する。
全く知らないわけでもない、けど、わざわざ深く知る必要もない。
互いの近況を楽しみながら、たまにコメントでやり取りする。
その程度でいいのである。
昨年末、reinは韓国へ旅に出た。
なんでも、自分への誕生日プレゼントだったらしい。
彼は発信する動画の中で、旅先で見た光景を次々と絵に落とし込んでいく。
そんな様子が連日投稿されていて、
私はその動画に無性に心惹かれてしまった。
まるで昔の日本の絵師のように、旅をしながら、目に映る建物や食べ物を、その場で遮二無二描き留める様子に、心動かされて仕方がなかった。
毎投稿の末文には、
「これが私の人生です」
とあり、
その一言もたまらなく心に沁みる。
なぜかはわからない。言語化ができない。
私のどこに、どんな刺激を当てられたのか、
兎に角、無性に、
私もこんなふうに、どうしようもなく旅をしながら絵を描いて歩きたい。
そう思ってしまったのである。
一人ぼっちは絵描きになる
敬愛する友川カズキの楽曲である。
きっとそういうことなのだろう。
きっとそういうことなのだ。
私はきっと、
抱えている孤独を、同じ孤独を抱えている人たちと分かち合いながら、
誰に傷つけられることも、誰を傷つけることもなく、
自由に生きていたいのである。
私は私のために、「これが私の人生です」と胸を張れるような人生を、精一杯探していく。
それが私の人生なのである。
reinとはTikTokで知り合いました。
よかったら、彼の韓国旅の動画だけでも見てみてください。