小説『i アイ』が教えてくれた人の苦しみを想像するということ
震災で被害者にならなかった私
私は東日本大震災を経験した。東北の太平洋沿岸部沿いが地元である私は、まだ中学生だった。
幸運にも私は大きな被害もなく、家族も無事だった。
しかし周りには被害を受けた人々が大勢いる。
友人の中には津波で家を失った人、原発の影響で二度と自宅に戻ることが出来ない人。
亡くなった同級生もいた。
避難所となっていた母校の小学校へ行くと、友人が家族とともに、体育館内に与えられた狭いスペースで生活をしていた。
いち家族に与えられるスペースはわずかであり、そんな家族が多数その体育館では居住していた。
思春期真っ盛りだった私は、「家族とこんなに近くで生活するなんて」と想像してしまった。
自宅には問題もなく、水道がこないとはいえほぼ普段通り生活をおくることが出来ている私は、自分だけこんなに豊かで良いのか?と思っていた。
友人たちは家もなく、あの狭いスペースで生活しているのに。
豊かであることを手放したくはないと思いながらも、その豊かさに悩むどうしようもない気持ちがあったことを今でも覚えている。
恵まれない国に生まれながらも、養子として豊かな生活をおくるアイ
小説『i』では、主人公のアイはシリアにルーツを持ちながらも、養子として豊かな夫婦のもとで迎えられる。
アイは悩む。
なぜ選ばれたのが私なのか。今シリアで起きている紛争に巻き込まれ死んでいった彼らは、なぜ選ばれなかったのか。
一方で、幸せを望む自分がいることにもアイは悩む。大人になっても悩んでいる。
本当に矛盾している...
その気持ちは矛盾しない
最終的にこの作品は先に述べた矛盾は、矛盾していないと教えてくれた。
誰かに、悲劇に思いを馳せる。その苦しみを想像する。
そんなことをしたって当事者にならない限り本当の苦しみを理解することは出来ない。しかもお前は幸せを望んでいる。結局幸せになりたいんじゃないか。
違う。もちろん当事者の本当の苦しみなんてわからないであろう。しかしその苦しみを想像することが大切なのだ。その人びとに思いを馳せることが重要なのだ。
それは生きているからこそできること。生きてその苦しみに向き合うこと自体が奇跡であるのだ。後世にその悲劇を知らせることもできる。
その想像が次の行動に繋がるかもしれない。新たな被害者がでることを食い止めるかもしれないし、別の人を幸せにする自分になるかもしれない。
誰かに思いを馳せることと自分が幸せになろうとすることは矛盾しない。
結局自分のことしか考えていないじゃないか、と考える中学生の私にこの言葉を送りたい。