トイレの子。
大作映画のタイトルではない。
これは近所の郵便局に勤める方々が、当時小学生だった私を呼ぶ時の名前だ。
私は小学生の間、郵便局でトイレの子と呼ばれていた。
麗しき女性の方々には想像しづらいと思うが、小学生男子にとって学校のトイレで大便する事はこの世の終わりと同じ意味合いとなる。
いや、そうじゃない男の子も勿論いるだろう。
その子は素晴らしいのでどうかそのまま突き進んで欲しい。だが、当時の私にとってはこの世の終わりと同じ意味合いだった。
個室に入ったり出たりしたところが他の男子達にバレようものなら、とんでもない嘲笑と吊し上げを食らう。男子トイレは殺伐とした空間であり、個室に入る=ウンコマンという馬鹿馬鹿しい方程式が確かに存在した。そしてその方程式を笑い飛ばせる力が当時の私には無かった。
ハリーポッターの組分け帽子を想像して欲しい。
あのテンションで来る。
「ウンコマァァァン!!!」の声が響き渡る。
当然向こうが組分け帽子のテンションなので、こちらは運命の子のテンションとなる。
「ウンコマンは嫌だ!ウンコマンは嫌だ!」
だが、トイレにおける組分け帽子達は「ウンコマンは嫌なのかね?」と聞く配慮と有情さを持ち合わせてはいない。
ポッターが悪いのだ。
小学校男子トイレにおける個室というものは、あるけど無いものであり、秘密の部屋であり、名前を言ってはいけないあの人である。
そこに足を踏み入れたポッターが悪いのだ!!
そんな滅茶苦茶な理屈がまかり通る場所であった。
私は運命の子では無かったので、ウンコマンという組分けを発動されようものなら、当時滅茶苦茶繊細だった心が容易く砕け散っていただろう。
ウンコマンにはならない。
私は私を守る為に自身の手で秘密の部屋に封印を施した。
学校のトイレで大便は極力しない。家まで我慢する。
なんて恐ろしい縛りを課すんだ、その先は地獄だぞと今は思うが、当時小学生のポッターはこれを実行した。お腹の調子が良くないどう足掻いても無理な時はクラスから遠く離れた学校の正面玄関の付近にあったトイレまで出張した。おそらく事務の方と、先生方用のトイレだろう。組分け帽子達もここまでは目が届かない筈だ。そんなことを考えた。入る時と出る時には細心の注意を払った。
しかし帰り際に便意が来た時には、ポッターは学校でするという安全な選択肢を選ばず、家まで我慢する破滅の道を選ぶタイプの子供だった。
案の定地獄を見る羽目になった。
ポッターは無謀にも自身の生理現象に挑むという、本物のハリーですら成し遂げていない戦いに身を投じた。
そして帰り道で普通に漏らした。
あの敗北感と気持ち悪さは決して拭いきれない。おばあちゃんと一緒に洗ったけど落ちなかったパンツの染みは文字通り人生の汚点として残った。
しかしポッターはまだ諦めなかった。
なぜならば漏らした事はまだ学校の友達にバレていなかったからだ。まだ、まだ行ける!!
ポッターは学校のトイレを使うより漏らした方が名実共によっぽどウンコマンだという事実には気付いていなかった。
不屈の精神で秘密の部屋の封印を解く道を選ばず、またしても勝ち目のない戦いに身を投じた。
当然のようにまた帰り道で漏らした。
学習しろポッター!!人間は自分の生理現象には勝てない!!
おばあちゃんからも「あんたいい加減にしなさい!」とお叱りを受けた。当然である。
だが、ポッターは「どうしてそんな事を言うんだ!」と思っていた。「ぼくはこんなに戦っているのに!」と。
しかしここでポッターもさすがに悟った。
学校から家までの距離を我慢したまま帰るのは不可能である。と。もうちょっと早く気付けなかったかい?と今は思うが、どうあれここで気付いた。
しかしポッターは学校の秘密の部屋を頼る気は無かった。帰り際に学校のトイレを使うのは、普段より見つかる可能性が高い。それは怖い。あれは最後の手段だ。ポッターの最後の意地だった。
ならばどうするか。
当時、コンビニ等も付近には存在しなかったが、学校と家のちょうど中間地点に郵便局があった。
ポッターはここに目をつけた。
嘘です。本当は脂汗を滴らせながらまた漏らしてなるものかと藁にもすがる思いで、目の前にあった郵便局にいきなり飛び込みました。あの判断は今でも正しかったと誇れる。
郵便局に飛び込んだポッターは迫真の表情と声で服を汗でびちゃびちゃにさせながら懇願した。
「トイレを!トイレを!」
「トイレ、使いたいの?」
郵便局の優しいお姉さんが聞いてくれた。
はい!だかうん!だか叫ぶ小学生をしっかりと案内してくれた。
ポッターにとってそこは楽園だった。
あの間に合った時の安心感は忘れられない。
トイレから出てきたポッターに「大丈夫だった?」と聞いてくれたあの優しいお姉さんを忘れられない。
いや学校のトイレ使えよと思うが、ポッターは切羽詰まるとその郵便局に助けを求めるようになった。
そして謎の符号が生まれた。
ポッターが「こんにちは!」というと、郵便局の方々が「トイレの子来ましたよー!」と言って案内してくれるようになった。
なんたる図々しさ。なんたる温かさ。
小学4年生になった時に、大人びた友達が1人既に敬語を使いこなしていた。あの子はしっかりしてると大人達が好意的な反応をしているのを見て、こう言えば大人は喜ぶのか、という事を学んだ。
その子の事がカッコいい!という憧れもあったし、友達や自分の親、そして郵便局の人達を含めた大人達に褒めて貰いたかったという邪な気持ちで私は敬語を覚えた記憶がある。
ポッターはポンコツだったがそういう部分はずる賢い子供であった。
「ありがとうございました!」
郵便局でトイレを借りて受付のお姉さんにそう言った時に、「あら!偉いわね~」なんて言って貰えた嬉しさを大人になっても覚えているのだからおめでたい子供である。
結局小学生の間ずっと私はその郵便局に助けられた。
小学校の卒業と共に郵便局のトイレの子も卒業した。
中学生になってからはさすがに秘密の部屋を解禁した。もっと早くに解禁しておけば良かったと思った。
だが早々に解禁していたら郵便局の人との交流は無かっただろう。郵便局の人達からしたら、私はただ毎回トイレを借りに来る変な子供でしか無かったと思うが、私自身は認識して貰えている事がなんだか嬉しかった。
その郵便局には未だに行く。トイレを借りにじゃなくて、本来の形で。
そしてあの貸してくれたトイレは、今もある。部屋の一番奥に。本来は勤めている方だけが使えるトイレだ。お客に貸し出すのは極めて緊急事態の時だけだろう。私は当時客ですらなかったのに。
私は小学生の間、ハリーのような運命の子では無かったが、確かにトイレの子だった。
勤めている方達だけが使える秘密の部屋を、優しさによって例外的に使わせて貰えたトイレの子だった。
あの時は本当にありがとうございました。なんて今言った所でヤバいだけだ。人も変わった。もう言えないから。かわりにここに書く。
確かに救われた当事者の、実感と感謝を込めて。
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