見出し画像

人知れずあるトイレの中の、人知れず存在する敬意。

「厳かさ」とは何だろうかと考えた時に、私はその対象に対しての敬意であると結論付けた。神社仏閣に確かに存在する厳かさは、キチンと掃除された境内からまず滲み出るものであると結論付けた。

私の父方の祖母の家は限界集落だ。未だにポットン便所であり、風呂を沸かす時に使うかまどがある。10年前までジーコジーコ回すタイプの黒電話だった。歩いて行ける距離にスーパーは無く、車が無いと生活できない。自治会からマイクロバスが出て車を持たない高齢者の方々がスーパーで買い物できるようにしてあったり、最近は移動販売車で買い物ができるようになった。良いことだ。そんな感じで、買い物をすることが一大イベント扱いとなる場所だと思って欲しい。そして、祖母の家に向かう迄の山道で高確率で猿に出会う。

そんな限界集落に向かうまでの道筋に、ひとつ、設置された公衆トイレがある。このトイレが汚れているところを私は見たことが無い。この辺境の極致とも言える場所であるにも関わらず、必ず荒れる要因だらけなのにも関わらず、いつも清潔に保たれている。

何故か。

週三回、そのトイレの付近に住む方々が、完全なるボランティアで清潔に保ってくれているからである。

私はその公衆トイレに、神社仏閣の境内と同じ厳かさを感じた。ここには確かなる敬意があった。

トイレに入る際いつも、あぁ今回もとても綺麗だ。と感じると、身が引き締まるような気持ちになる。

家のトイレでは絶対に意識を向けていない、自身の所作に気を付ける。

ひとつひとつ確認しながら使う。

敬意には、敬意を。せめてもの感謝と共に。

そんな自己満足で使わせて頂いている。

年齢も、性別も、名前も、顔も知らない方々へ、確かに尊敬の念を抱いている。

この方々の善意によって、トイレは清潔に保たれている。厳かな公衆トイレになっている。

使う人の意識まで磨くような、丁寧な掃除はあるのだと私は確かに教わった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?