私の自己表現
まず最初に、私をこの世に生みだして、深い深い愛情をもって育ててくださった父と母、そして祖父祖母、妹たち弟たち、私を取り巻く全ての人々に感謝の気持ちを送らせてください。
ありがとうございます。
私は父と母の第一子としてこの世に生んでもらいました。
父も母も神を求める人達でした。
人の為に祈り、自分は笑われても損を食っても、その奥に真実の幸せがある、返ってくることの中に必ず神があり答えがある。そう信じて暮らす人たちでした。
父は人の為にとにかく祈りました。何日もご飯を食べなかったり、お水を飲まなかったりは時々あることでした。
また、清貧を好みました。
お金は全て人様の為に回し、自分たちは自然にあたわってくるものだけで暮らす。私たちの服は全てお古でした。食べるものは人に頂くお野菜や、パン屋さんでもらうパンの耳でした。
母は工夫が上手な人で、私はひもじいと思った記憶はありません。
また、毎日貧しくても楽しかったのは覚えています。
ただ、私たちは戦時中に暮らしていたわけでは無かったので、自分たちだけがどうして見すぼらしくみえて恥ずかしかった記憶はあります。思えば多分、その当時から私は私なりの自己表現がしたいという欲求があったのだと思います。好きな服を着ている子が羨ましかった。
継ぎはぎの服、パーツを組み合わせて作った自転車。綺麗に磨かれたお古の学生カバン。そのどれも確かに上手にできていました。
でも、
どうや、
愛やろ~
ええやろ~
と言われるたびに、私は。。。となっていました。また、それを心から喜ぶことができない自分を責めました。
父が器用に切ってくれる髪型も、実は好きではなかった。
ごめんなさいお父さん。
好きになれなかった自分を責めたけど、やっぱり好きになれなかった。
母はとても心配りのできる人で、そしていつも優しかった。でも私は彼女の提案をいつも喜んでは受け取ることが出来なかった。
次第に、こっちへおいで。これを食べ。これはどう?
という提案が、私にとっては即座に消化しきることができない、でも積みあがっていく どうしたらいいのか分からない物になってきました。
ごめんなさいお母さん。
父は多才な人で、なんでも大体器用にこなしました。
大工仕事も、電気も、車も、野菜つくりも、水道も、彼にできなかったことは私は思い出せません。
絵を描いたり楽器を演奏するのも得意で、教会の鼓笛隊を指揮して、演奏する曲を選んで、編曲して、各パートの楽譜を作って、子供たちを鼓舞し、一体化させ良い演奏に導くことができました。それを通して、参加した子供たちは素晴らしい体験を得ました。
また彼は頭も良く、機転も効きました。
母もまた優しく、どんな時も明るく、そして気配りの行き届いた素晴らしい女性でした。
父も母も貧しさの中に工夫を光らせて楽しむことのできる人達でした。でもそれは必ずしも私がやりたいことではありませんでした。
子供だから当たり前の事だったのかもしれませんが、暮らしや思想に私たち子供の発言権はありませんでした。そろばん教室も、お習字も、私には関係のないことでした。代わりに父が楽器を教えてくれましたが、厳しくて私はすぐに脱落しました。
父も母も、本当に一生懸命に私を幸せにしようとしてくれていました。
それは良く分かっていました。どうしてか、私の思う幸せの形と、親が私に望む幸せの形が一緒ではない気がしていました。
彼は良い文章を書きました。
一言をチラシにして家々に配るのですが、確かにへーっと思うような文でした。
次第に彼は講演に呼ばれることが増え、執筆活動も増えました。
どんなに賢くても、どんなに素晴らしくても、どうしても私にとって両親とは何かを相談したい相手ではありませんでした。目指している物がなにか違うと感じていた私は、彼らに自分の本心を打ち明ける事がどうしてもできませんでした。
私はあくまで、親の世界の中で動く駒の一つとして、自分の心を隠して親の喜ぶようにだけ関わる。だんだんそれが癖になってしまいましたし、そうすることが正義だと思っていました。
また私はその点で常に劣等生でした。
私は自分が、どんなに頑張っても親の好みの駒では無い気がしていました。
妹や弟のように、素直に心から親を敬えていない自分を責めることもにも限界があり、私は一線をひいて暮らしました。
今、教会は私の弟に代替わりをして、弟のキャラクターや誠実さも加わって勢いを増し、信仰の火は熱く燃えています。
でもそれは、私にとって今はまだ遠い国の話です。
私にとって、自由に自分を表現できる場所、それは今暮らしているイギリスです。
父は本を出し始めました。道中記です。
え?あの本に出てくる娘さんってかほりさんだったんですか?素晴らしいですね。バイブルです。という声も聞いたことがありますが、私は正直少し複雑な気持ちです。だってあそこに出てくる子は、私であって私では無いんです。
私は両親に、一生懸命に、その時代の中で精一杯を尽くして育ててもらったと思っています。
両親だけではなく私を取り巻く全ての人々から、沢山の愛情を注いでもらい育ててもらいました。
間違いありません。
道中記は、父の私達へのラブレターであると思います。私はラブレターをいつか心から上手に受け取れる私になりたいなと思っています。
私は、自分も自己表現をしたいという欲求がある一方で、何故か恐怖心がありました。
手前味噌の押し付けになることが怖い。自分を表現することで誰かの個性を否定してしまうことが怖い、と思っていました。
でも私はこれからもっと自分を表現することにします。
押しつけにはなりません。押し付けないから。
他人を否定もしません。だってしていないから。
自分として表現をしているだけ。
それを決めたら、すごくワクワクしてきました。
私の居場所は私が作ったらいい。
これから、自分の心が喜ぶ、愛の言葉を綴っていこうと思います。
どうぞ宜しくお願いします。