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2 春は唐突に、弾けたお菓子のように

1 今からでも遅くない より続く

 がらがらの図書館に戻ってきた。よりいっそう静かな空間には、遠くの校庭で響く女子生徒の声さえ聞こえるようだった。さっきまで座っていた席は案の定空いたままだったから、再びそこを陣取る。どうせしばらく来ないだろうし、とリュックとコートは隣の席に置くことにした。
 リュックから分厚い単行本を手に取る。教科書もノートも入っていないリュックの中で、唯一存在を主張しているものだった。地元の図書館で借りた、世界文学全集。読む本のジャンルが偏ってしまうのは惜しい気がして、目についたこれを借りたのだった。ちょうど暇な時期だし、ゆっくり読めばいいや、と思った。
 机に置いてゆっくり栞紐を抜き、読み進める。学校の図書館なんか飛び出して、世界が広がっていく。今わたしがいるのはアフリカの大地だ。どこまでも地面が続いていて、向こうには野生の動物たちがいる。まっさらな空が心地いい。そしてわたしは農園を経営する主人公を少し遠くから見つめている。どんな生活が待っているのか、どんな事件が起こるのか、先のみえない世界を体験することが楽しく面白い。
 しかし外国文学に馴染みがないせいか、いつもよりページのめくりが遅いのを感じる。うどんを食べて多少はすっきりした頭も、また曇ってきたみたいだ。こうしてちょっとずつしか読めないから、返却期限はとっくに過ぎてしまった。それでも一度手に取ったものを諦めるのは嫌で、意地を張っているのだ。
 小一時間前に眠ったばかりなのにな。全く同じこの席で、リュックを抱えながら。せっかく読書できると思ったのに。でもこの眠気が簡単には消えないってこと、十八年も付き合ってきた身体だからわかる。というかいつだって眠気に勝てたことなんかない。高校生はいつも眠いよね、と梅香に言ったら、それは雫だけだよ、と言われたことを思い出す。成長期なのかと疑っても何の変化もないし、この眠気がどこから来るかはわからないままだ。この先もずっとわからないままだと思う。特に不便でもないし、病気じゃないならそれでいい。
 たいして進んでもいない箇所に栞紐を挟みなおし、ばたんと本を閉じた。改めてみると枕にできそうなくらいの分厚さで、よく持ち歩いてるなと思う。他に持ち物がないせいで背負ってると負担には感じないけれど、こういうのは家で読むやつなんだろうな。
 またマフラーを枕にして顔をうずめた。癖になる触り心地だ。繊維が制服に付きやすいのが玉に瑕。でもお構いなく身体を預け、また眠りについた。おやすみ世界、二度目だけど。

 チャイムの音で目が覚めた。そうだ、またわたし寝たんだった。起きてすぐは意識がぐちゃぐちゃで、どうして眠っていたかさえはっきりしないこともある。
 机で二度も寝たせいで身体がばきばきだ。勢いよく伸びをしようと、腕をあげて身体を反らせた。反射的に欠伸がでて目をつむる。あぁ、よく寝た。今何時だろう。半開きだった目をぱちぱちして、腕時計にピントを合わせる。どうやら六時間目が始まるチャイムだったみたいだ。止まらない欠伸をもうひとつ。
 あ、わたし、今、授業サボってるんだ。
 何の変哲もない穏やかな午後。わたし以外のひとにとってはいつもと変わらない午後。でも、わたしにとっては初めての午後。思っていたより特別感はないけれど、人生で初めての午後を過ごしているんだ。自分で選んで行動した先の今、自由ってこういうことを言うのかな。そう思うと嬉しくて、思わず口角が上がっていた。
 ……なんか、左斜め前から視線を感じる。授業中の図書館、ほとんどひとはいないはずなのに。念のため緩んだ口元をきゅっと引き締める。気のせいならそれでいいんだから。
 衝立の向こう側、そっとその方向をみると、わたしをみつめる目とばっちりぶつかってしまった。
 目が離せない。磁石で引っ付いたみたいで、動けない。
 真っ黒な瞳が揺れて、三日月になった。俯瞰する脳内のわたしが綺麗だ、と呟いた。
 ひゅっ、と吸い込んだ息の音がした。わたしの音なのに現実味がない。空気を吸ったままの肺は弾け飛ぶ寸前で、息が詰まる。少しでも動いたら破裂してしまう。一瞬のまばたきだとしても。
 先に目を逸らしたのは彼のほうだった。けれど三日月が伏し目になってまばたきをする様子が、スローモーションで焼き付いて離れない。
 高校三年生の冬、あともう少しで卒業なのに。桜前線なんかよりずっと早く、春が飛び込んできてしまった。

(続く)

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