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自分の星を見つける-土門蘭さん著書『死ぬまで生きる日記』-

ある人の日記を読み、静かに深く沁み入るような感覚を覚えながら、わたしの心は震えていた。ときに著者とともに泣きながら。

胸の奥がじーんとあたたかくなって、心臓の鼓動が身体まで伝わってくるかのようだった。

その日記とは、土門蘭さんの著書『死ぬまで生きる日記』だ。



「死にたい」の裏にある想い

土門さんの日記には、2年間のカウンセリングを通して、著者が「死にたい」と願う気持ちに向き合ってきたことについて、とてもありのままに記されている。

「二十年以上、ほぼ毎日『死にたい』と感じているんです」と本書にあった。でもその感情は規則性もなく突発的に発動する。土門さんはどうして死にたいと思うのかわからなかったと言うのだ。

死とは対極にある生。けれども土門さんの日記からは「生」に向かっていく、うねりみたいなものを感じた。

土門さんも記しているように、「死にたい」と思うことは、「生きたい」「生きる意味がある」と思っていることの裏返しである。

本書に出てくるカウンセラーの本田さんと土門さんは「パートナー」となり、その「死にたい」という感情について一緒に考えていく。ときに自分の感情にとまどいながら。

生きづらさの中にあったわたしの心の声

わたしは「死にたい」ではないが「生きづらい」と感じることがあった。今もないとはいえないけれど、以前と比べるとそのような感情に陥ることは少なくなったように思う。

でもそのような感情になってしまうときは、たいてい、そこにいるはずのわたしは、そこにいない。

先輩や上司から「この仕事まだやってないよね?」と言われると、別に自分が必ずしもしなければならない仕事というわけではなく、チームでする仕事なのに、できていない自分が悪いと感じてしまって「すみません。まだやっていません。すぐやります。」と言って、気が利かない自分を責めた。

先輩や上司の顔色を常に窺って、なんだか怒っているなと感じると自分が悪いことをしたんじゃないかと思って、気が気でなかった。

状況を見て、今は発言しちゃだめだなとか、言いたいことがあってもワンクッションもツークッションも置いてしまって、タイミングを見計らっていたら、そのタイミングすら逃す。

言いたいことを次第に飲み込むくせがついて、発言することすら怖くなってしまった。

そんな風に自分を押し殺したり、責めることが得意になる一方で、人の心や感情が手に取るようにわかるような気がしていた。

誰かの放った一言で、今この人は少し嫌な気持ちになっているなとか、すごく感情に敏感になって、人を傷つけないようにしようと必死だった。無論、自分も傷つきたくなかった。

でもそうやって必死で相手に寄り添っても、相手にはいとも簡単に裏切られる。その人からしたら悪気はないかもしれないけれども、心ない一言や配慮に欠ける言動を受けとると、すぐ心を閉ざして人が嫌いになった。

なんでわたしはこんなにも人とうまく関われないのだろう。

人と心を通わすことが難しいのだろう。

土門さんの文章を読んでいて、そのときのことが思い返された。

その過去は消えないし、ときどきそのわたしが顔を出すわけで、過去の自分にまた戻ってしまわないか、それが怖かった。

けれども本書にはこう書かれている。

「過去をとらえなおすことができる」

本当だろうか。過去は過去でしかないのに。

だが、土門さんは自分と向き合い、過去を捉えなおすことで、母親からの愛に気づくことができた。

捉えなおすには、内なる自分と丁寧に向き合っていく必要がある。

自分の弱さと対峙することでもあり、苦しさも伴う。けれども、まずは自分の感情や過去を受け止める。認めてあげることができたとき、少し救われたような気がした。

わたしはきっと、他の誰でもないわたしに、ここにいるよと、伝えたかったのではないか。気づいてほしかったのではないか。わたしの感情や心をなかったことにしないでほしいと。まずは自分を見てほしいと。


「死にたい」でも「生きたい」でもない、自分の居場所へと導いてくれることば

土門さんはカウンセリングを通して、ひとつひとつの感情が掘り起こされ、浮き彫りになっていった。

そのなかで、彼女の拠り所となることばを見つける。それは死にたいでも、生きるでもない、もっと本質的なものだった。

そのことばを見つけた土門さんは、たとえ「死にたい」という感情がまた起こったとしても、そのことばを頼りに自分の居場所へと帰っていくことができる。

著者は、自分の居場所をたとえるなら、火星と表現している。そこは地球ではない、著者だけの住む場所なのだ。そしてそこで文章を書いている。

そんな火星に帰っている間、私は「生きている」でも「死んでいる」でもない。
ただ、地球から少しの間不在となる。
そしてひとりぼっちで星を耕す。
あらゆるしがらみから自由になった場所で、地球から持ち帰った「良いもの」を植えるのだ。

星づくりに、終わりはない。私の命がある限り。
そんな場所があるという事実は、私をこれまでにないほど安心させてくれる。

『死ぬまで生きる日記』

それは著者が、自分の奥深くに入り込み、ときにパートナーと手を取り、自分を見つめつづけたからだ。依存することや自分の辛い過去を分かち合うことは、限られた身近な人にしかできないわけではないということを教えてくれた。

この2人のなかで芽生えたものは、たとえ関係性が変わろうとも、著者のなかで生き続ける、確かなものであるに違いない。

自分の星を見つける

ところで、わたしにとっての星は何なのだろうか。

まだはっきりとしたことは自分自身わかっていない。けれどもわたしの中でしっくりときつつあるのは、「線」というワードだ。

今までは自分を出すことができなくて、人と深く関わることが怖くて、
すぐそこにぴしゃっと見えない線を引いた。自分を守るために。

けれども自分を守っていると思っていた線が、自分を苦しめているということに気づく。線を引き続けるということは、自分をも開放できないでいる。自分を出せば、ことばを発すれば、その線を越えてしまえば、少し楽になることもあるのに、わたしは頑なだった。

けれども、その線を自由自在に動かせばいい。

自分を解放できそうなときは、その線を少し緩めてあげる。どうしても守りたい、怖いと思う時はしっかりと線を引けばいい。

今までわたしは、引いた線は動かせないと思っていた。この人には自分をうまく出せないなと思って線を引いてしまったら、変えられないものだと思っていた。でもこちら次第なのだ。

わたしの星を見つけるには、もう少し時間がかかりそうだ。けれども、自分の居場所を守っていくとはどういうことかを掴みつつある。

わたしたちもきっと、自分のための星を見つけることができる。

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