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歴史家たちから見向きもされない 坂本龍馬 を惨殺した人物の謎



歴史家たちから見向きもされない日本史上
の出来事として、坂本龍馬を惨殺した真犯人
について


高台寺に登る坂を登っていくと左手に
高台寺を過ぎて更に登ると左側に幕末から
維新にかけて活躍した人たちのお墓がある

そして、急勾配の坂を登った右側にある
のが霊山歴史館です


この歴史館に行くと、その 坂本龍馬 を惨殺
したとされる小太刀を見学することができる


私は、坂本龍馬を惨殺したのは小太刀の達人
で、幕末に江戸幕府直属の旗本からなる
見廻組のうちの戊辰戦争、會津戦争、函館
戦争を生き抜いた人物こそが真犯人だと
思っていたけど、ちょっと違うのではないか
なと感じるようになったん


鳥羽伏見の戦いから端を発した幕府軍、
若しくは 會津藩の 松平容保のような
徳川家に対する忠誠心が強い人々、立場と
長州藩や薩摩藩を中心とする倒幕派との
戦争の中で生き抜いた者でないと証拠が
なく、または確証もない


実際、坂本龍馬を惨殺したのは誰なのか
取り調べが始まったのは函館戦争が終了
した、明治 2年くらいから始まったとされる


坂本龍馬を恨む、対立する関係があったと
すれば、紀州藩あたりだろうと思う

瀬戸内海で発生した紀州藩の運搬船と
海援隊の船との衝突事故が起こり、紀州藩と
当事者である、坂本龍馬との間で紀州藩
で裁判が起こり、坂本龍馬は国際航海法
を持ち出して紀州藩の運搬船が間違えた
舵の操作をしたから衝突して事故が起きた
と主張した 坂本龍馬 の言い分が通って
しまい、紀州藩は海援隊に対して賠償金
大金を支払うはめになったことで恨みは
あったように思える

いわば、ぼったくりの裁定を受けていたけど
徳川家御三家である、紀州藩が個人を相手に
殺したいほど憎んでいたか?!
という疑問がある

歴史上では、薩長同盟を締結させたのは
坂本龍馬と中岡慎太郎ということになって
いるようだけど、坂本龍馬は実は、西郷隆盛
の遣いぱしりだったに過ぎないという見方も
されているし、薩摩藩は関与していないように
思える

長州藩に対しても、坂本龍馬に恨みを持つ
ようなことはないから否定できると感じる


いずれにしても、近江屋の 2階の坂本龍馬
と中岡慎太郎が居た部屋は天井は低いし
部屋も狭い


環境からしても、近江屋と土佐藩邸は向かい
にあるから見廻組や新撰組など幕府寄りの
組織の中でも大人数で襲うことはむつかしい
し、なにより日本刀では抜刀した途端に刃が
天井に引っかかってしまうから不利、

確実に仕留めるためには、突き若しくは
小太刀など近接戦闘に長けた人物でない
と不可能なんだよね


そこで、見廻組の小太刀の達人と謳われる
人物がたまたま、函館戦争を生き抜いて
維新後、裁判により犯人とされ裁判が
行われたけど、その小太刀の達人とする
人物以外、生き証人がいないから
どうやらその人物が惨殺したことになって
いるみたい

霊山歴史館では、名前と小太刀、近江屋の
構造の模型などがあるので興味がある人は
是非ともあの急勾配の坂を登り、歴史館を
見学してみることをおすすめしたい、


そんな私は、健康だったときには清水寺から
二年坂、三年坂を通過して高台寺の駐車場
のところにある茶店で抹茶ソフトクリームを
食べて階段を下りて左向かいにある、圓徳院
でお抹茶をいただき、豊臣の旗印の瓢箪の
形をした羊羹をいただき、穢れたこころを浄化
させるのが、なによりの気分転換になってたん

昔は、1500円支払えばお茶室の中でお抹茶を
いただき、一服の掛け軸と一輪挿しのお花を
見ながら 静  にできたんだけどね、、、、

コロナの影響もあって、week day なら 500円
支払えば、お抹茶はいただける

お茶室で、
とこだわるのであれば、土日などに電話で予約
すればいただけると思います


建仁寺派です
江戸時代に建てられたお茶室
圓徳院で 気 を感じる襖金具


圓徳院をあとにしたらねねの道を道しなに
歩いて円山公園を散策して知恩院へ


知恩院のお茶   ~~~ おすすめ  ~~~



画像は、過去画です
東山方面は、あの混雑をみただけでお腹
いっぱいになるので疎遠になってます



さて、
坂本龍馬を惨殺した真犯人は誰なのでしょうね、
拳銃を携帯していた、坂本龍馬の眉間を
切りつけて惨殺した小太刀の達人、、、、


それ程までに歴史の中に埋もれてしまって
いる研究価値がないこの事件の真相は闇
の中です


私にはわかりません、

ପ(๑•ω•)੭ ☆

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