世界の謎から日常の問題へ--思弁的実在論
* 思弁的実在論とは
思弁的実在論(Speculative Realism)とは狭義には2007年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行わ れた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマンら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端に生じた今世紀初頭の大陸哲学における実在論的潮流をいいます。
それは我々が生きるこの世界を構成する客観的な事物としての「実在」それ自体を、従来の実在論とは異なった「思弁的」といえる奇妙な理路によって捉え直すという新種の実在論です。こうした潮流はフランス現代思想の系譜において「構造主義」「ポスト構造主義」の後にくる、いわば「ポスト・ポスト構造主義」に位置付けられます。
* 相関主義の乗り越え
思弁的実在論において共有される問題意識は、その筆頭的立場にあるメイヤスーのいうところの「相関主義」の乗り越えにあります。
近代西洋哲学においては、イマヌエル・カント以降、我々人は世界を構成する様々な事物の「実在」それ自体は思考不可能であるという暗黙の前提が広く共有されることになりました。こうした近代哲学における思考と存在の相関関係をメイヤスーは「相関主義」と呼びます。
そしてメイヤスーは「相関主義」を前提とすると、思考不可能な「実在」の位置に任意に代入した非合理・非常識な命題こそがまさに世界の真実であるなどと主張する陰謀論的な「信仰主義」に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的「相対主義」がもたらされるとします。
* 世界は突然別様のものに変わるかもしれない
これに対してメイヤスーはこうした「相対主義」に対して常識的な自然科学的世界像を擁護するための理論を提示します。けれどもその理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなります。
まずメイヤスーは世界を構成する事物は人間の言語による意味づけとは無関係に、ただ端的な「実在」として客観的に存在しており、そしてそれは一義的に、つまり唯一の真理として「これはこういうものだ」といえるといいます。そしてこうした「実在」の客観性はメイヤスーによれば、唯一、数理的記述によって思考可能だとされます。
このようにメイヤスーは数理的記述こそが世界の揺るぎない客観性だというのですが、その一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、メイヤスーはこの世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出します。
すなわち、この世界のあり方に仮に必然性があるのであれば、世界には隠された存在理由(充足理由律)があるはずですが、メイヤスーはその存在理由が消去された完全に乾き切った「ただあるだけ」のこの世界を捉えます。そしてメイヤスーは自然科学的な世界像はこうした「事実論性の原理(非理由律)」によって哲学的に正当化できると考えました。いわばメイヤスーにおいては(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高い次元での相対主義をもって対抗する理論であると言えるでしょう。
* オブジェクト指向存在論
また思弁的実在論の分派としてハーマンの提唱する「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と呼ばれる潮流があります。
ハーマンは「存在と時間」における道具はそれが壊れるまでは主題的に認識されることはないというハイデガーの洞察を対象=オブジェクト一般にまで拡大し、オブジェクトひとつひとつの「内在性(それ自体のうちにあるということ)」を徹底する議論を展開します。
すなわち、あらゆるオブジェクトは本来人の意識に決して現れることなく、一つ一つ絶対的にバラバラに存在しており、それ自体の中に引きこもっている=退隠しているといい、そして、その無関係性こそが本来の一次的なもののあり方であり、関係性というのは二次的で現象的なものであるとします。
まさに人も動植物も無機物も世界を構成するひとつひとつのオブジェクトが他からアクセスできない孤独な闇であり、世界は様々な異質な闇によって構成されているということです。
この点、メイヤスーは世界はいつ変化するかわからないという偶然性により「実在」それ自体へと向かいました。これに対してハーマンは個々バラバラのオブジェクトのあり方として「実在」それ自体に向かったといえます。
* 世界の謎から日常の問題へ
こうした議論を日本の現代思想シーンの中に位置づけるのであれば、それはおそらく、東浩紀氏が「存在論的、郵便的」において提出した否定神学システム批判に相当するでしょう。ここでいう否定神学システムとは、イメージや言語では決して捉えられない一つの穴を巡って意味づけが無限に空回りし続けている思考様式を指します。その範例としてハイデガーの存在論やラカン派精神分析が挙げられます。
メイヤスーのいう相関主義とは、まさにこの否定神学システムとほぼイコールとなります。そして、こうした相関主義=否定神学システムに対する抵抗の拠点を東氏はコミュニケーションの失敗としての「誤配」に求め、メイヤスーたちは客観的な事物としての「実在」に求めたとひとまずはいえるでしょう。
この世界の偶然性を肯定するということ。無限の解釈から事物それ自体へ向かうということ。こうした世界像の中には、ありもしない世界の謎から散在する日常の問題へと折り返していく主体のあり方を見出す事ができるでしょう。そしてそれは、さしあたりの「いま、ここ」から別の「いま、ここ」へと跳躍していくようなしなやかさを持った生き方といえるように思えます。
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